[ いずみいのうえじんじゃ ]
大阪の重要な古地名の一つ「和泉」の語源になった由緒や、三島にある井於神社との繋がりも感じられる神社ということで、参拝をさせていただきました。駐車場があるのかないのか、ネットでは分かりにくかったのですが、近年整備した広い駐車場があります。
【泉井上神社のご祭神】
現在は和泉井上神社の境内社として、和泉五社総社が位置付けられていますが、そもそもは別個の神社です。
まずは泉井上神社ですが、ご祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇のほか、皇后に従って朝鮮に渡った神である従者四十五柱です。その御神体としての木像も四十八体あり、形、大きさ、手法、時代は泉穴師神社の神像と一致すると、「日本の神々 和泉」に林利喜雄氏が書かれています。
【泉井上神社のご由緒】
創祇由緒は、神功皇后の朝鮮出兵の途次に、今も境内にその跡がのこる清水「国府清水」が一夜にして湧出したので、皇后はこれを瑞祥として喜ばれ、霊泉と名づけてここに行宮をもうたという記紀には載らない伝承によります。そして、のちにそのほとりに社殿が造営されたということです。
【国府清水】
「和泉清水」とも呼ばれる泉井上社の創祇由緒になった清水の跡は、現在はその本殿の横に残っています。この清水は神社の創祇のみならず、「和泉」という地名の起源にもなりました。もとはかなり大きかったようで、下流の水田の灌漑に利用されて和泉国の農業開発に大きな役割を担ったと、林氏は書かれています。
720年の九州隼人の反乱ののち、その戦没者慰霊の放生会が諸国で行われた時、和泉五大社の神輿がここに渡御して数万匹の鯉を放流したと伝えられます。時代は下って、戦国時代の天正年間には豊臣秀吉がこの清水を大坂城に運ばせたという記録もあるようで、そのくらいこの清水が美味でお茶やお酒の醸造に適していたものだったのです。
【五社総社のご祭神】
ご祭神は和泉大明神(独化天神)、天照大日孁貴尊(大鳥大明神)、天忍穂耳尊(穴師大明神)、天瓊瓊杵尊(信太聖大明神)、彦火火出見尊(積川大明神)、草葺不合尊(日根大明神)、そして御諸別命。つまり、その社名の通り、和泉地方の五大社(大鳥大社、泉穴師神社、聖神社、積川神社,日根神社)の分霊を合祀して総社となった神社です。
【五社総社のご由緒(和泉国の成立)】
716年に和泉宮を造営するために、大鳥・和泉・日根の三郡が河内国からいったん分離されて和泉監(いずみのげん)が置かれる事になり、泉井上神社の地にその監衙(げんが)が設けられます。この際に、参拝の便をはかるために和泉地方の五大社がここに合祀されたということです。
泉監衙は740年には廃されましたが、757年にその三郡によって和泉国が設けられ、その国衙が引き続きこの地に置かれ、ここが和泉国の政治の中心となったのです。五社総社は現在は境内社となってますが、もとは総社として一段格式の高い神社だったと、先の林氏は説明しています。
【五社総社本殿】
総社の本殿は、現在は奥まっていて拝見しにくかったですが、1605年に豊臣秀頼が再建したもので、当時の様式を残す建築物として重要文化財に指定されています。
良く見えないので、林氏の記述にのっとり構造を記しますと、間口三間、奥行き二間半の流造。石積みの基壇の上に正側面三方に縁側をめぐらし、脇障子を構え、組高欄を置き、斗挟は和様の三ツ斗、正面中備には蟇股を置き、妻飾りは虹梁に大瓶束を建て、束上に絵様肘木を納め、破風に猪目懸魚を飾ります。屋根は檜皮葺、主要部は朱塗りで、長押、頭貫、斗挟などは極彩色で、桃山形式をよく偲ぶことができる、ということです。
【井上神】
「延喜式」神名帳の金剛寺本では、泉井上神社の訓は「イヅミヰノヘノ」ですが、他に「イズミイヌコ」「タノヘノ」と呼ぶ例もあります。さらに、式内社で他に「井上」に関わる名称をもつ神社は三社あり、以下の通りの訓です。
- 出雲井於神社(山城国愛宏郡。賀茂御祖社摂社)「ヰノヘノ」「ヰノウヘノ」
ということで、「井上」や「井於」は同様な意味でいずれも「ヰノヘ」と読みます。「式内社調査報告」で生澤英太郎氏は、「井於」は「井の辺」で、井のほとりという意味であり、ここはもと素朴な農業神である水の神を祀っていたのではないかと推察されるとしておられますが、泉井上社も同様なのでしょう。
かつて肥後和男氏は、『出雲井於神社も三井社も井上社もともに下賀茂の霊泉に立脚して定位された水神をまつった』と、井上神に共通した信仰があるとの説明をされていました。これを受けて宮井義雄氏は、東大阪市「出雲井」にある枚岡神社について、『出雲井から御祖神としてのヒメ神が生れた」と考えられていました。
上記を眺めると、泉井上社も「水の神~(御祖神としての)ヒメ神」というのがそもそもの姿だったように感じられますが、それがどういう経緯で神功皇后(多分、応神天皇の御祖としての)とつなげられたのかは、分かりません。
【境内】
泉井上社の前には、国府城から移されたといわれる板碑(いたび)というものが立っています。正平3年(1348年)や明徳3年(1392年)の記年銘があるらしいですが、風化が進んで読みにくくなってるようです。
(参考文献:和泉市の文化財公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、大橋信弥「継体天皇と即位の謎」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)