摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

天湯川田神社(大阪府柏原市高井田) 宿奈川田神社を祖神とする鳥取氏の地にある百済系石室の高井田山古墳

[ あまゆかわたじんじゃ ]

 

柏原市では、金山彦・金山媛神社国分神社そして伯太彦・伯太姫神社と巡ってきましたが、それらで感じた謎をさらに探るには、やはり同じ柏原市大和川北岸にある当社もご挨拶しておかないと、と参拝させていただきました。歩ける位置に柏原市歴史博物館と考古学上極めて重要な高井田山古墳があり、改めて共通する謎を感じました。

 

この石段を登ると踊り場があり、さらに登ります

 

【ご祭神・ご由緒】

現在掲示説明にあるご祭神は、天湯川桁命、東の相殿に天児屋根命、西の相殿に大日霊貴命です。中世には大宮大明神と呼ばれましたが、社家の鳥取家に伝わる1467年の「大宮大明神末社帳」によれば、川田大明神(中央・天湯河桁命)、東・春日大明神(天児屋根命)、西・大宮大明神(大日霊貴命)の三神を一殿に祀っていたとありますので、今も同じということです。中世は文書名からすると大日霊貴命すなわち天照大神が重視されてたようですが、もちろん中心はこの地に居たとされる豪族・鳥取氏の祖、天湯川田奈命(天湯河板挙命とも)です。

当社掲示によると、第十二代景行天皇の時期に勅命により祭祀されたとの伝えがあります。「延喜式神名帳では、河内国大県郡の小社として載ります。

 

境内

 

記紀に見える鳥取氏の由緒】

鳥取氏の由緒に関わる「物言わぬ皇子」の話は記紀両方に見えますが、天湯川田奈命に言及しているのは「日本書紀」の方です。つまり、垂仁天皇紀において、狭穂彦命の謀反で皇后狭穂姫を喪い、残った皇子誉津別命は30歳になるまで物を言う事がありませんでした。その皇子が飛んでいる白鳥を見た時に『あれは何か』と言葉を発したのです。そこで天皇はその鳥を捕まえ献上するよういわれ、天湯川田奈命が出雲(但馬国という説も併記)まで追いかけて遂に捕まえたのです。これによって天湯川田奈命は姓を授けられ、鳥取部、鳥養部、誉津部が定められた、となります。

 

コンクリート造の拝殿

 

古事記」では少しスジが違い、白鳥を追いかけたのは山辺大鶙で、越国の和那美で捕まえました(出雲には行ってない)が、それでも皇子は物を言いませんでした。その後、出雲大神の祟りに依るとのお告げがあり、皇子を出雲大神の宮に参拝させた後に言葉を発したのです。その他にも史実とは思いにくい出来事が書かれていますが、最後に皇子の為に鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたとあります。当社境内説明では、山辺大鶙は天湯川田奈命と同じ神だとしています。

 

社殿

 

【祭祀氏族】

鳥取氏は、鳥取部を統轄する伴造氏族。造姓、無姓があり、地方によては臣、首姓もみられます。造姓の一部は天武天皇の時期に連に改姓し、「新撰姓氏録山城国神別には『天角己利命三世孫天湯河板挙命之後』と記される中央伴造家です。後には朝臣性になった人もいたようです。

 

本殿。屋根も朱色の流造

 

当社の河内を本貫としたのが無姓の鳥取氏で、「姓氏録」河内国神別に『鳥取。同神(角凝魂命)三世孫天湯河桁命之後』とあります。同書の和泉国にも同様の記載がありますが、和泉はもともと河内国なので同じ族員だと考えられています。なお、天角己利命(角凝魂命)については、「姓氏録」山城国神別の税部(ちからべ)の説明に『神魂命子角凝魂命之後也』とあります。

 

境内社。左から古野明神社(本社の母神)、山王権現社、平戸明神社

 

さらに、臣姓、首姓の鳥取氏が出雲国にみられ、国造、出雲臣家の一族が鳥取部の現地管理者となったものです。また、首姓は出雲の村落単位の統轄者だろう、ということです。

古事記」の上記所伝の中では、白鳥を追って紀伊、播磨、因幡丹波、但馬、近江、美濃、尾張信濃、そして越を巡ったと多くの地名が列記され、また、「和名抄」の鳥取郷が三河、下総、河内、和泉、越中丹波因幡備前、肥後に、鳥養郷が筑後に存在していて、ともに古代の鳥取氏の分布を示すとみられています。

 

塔を模したらしい忠霊塔

 

【鎮座地の鳥坂寺跡】

この地は奈良時代には平城京と難波を結ぶ龍田道が通ります。生駒山を越える峠越えで最も高低差の小さいところだったからです。「続日本紀」の756年に、孝謙天皇が知識寺(柏原市太平寺)の行宮(由義宮)に行幸した時、智識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂の各寺を巡拝した事が記されますが、この南北に並ぶ六ケ寺の一番南にあるのが鳥坂寺で、現在の当社鎮座地はその鳥坂寺の塔跡にあります。

 

百度石に白鳥

 

昭和36年の発掘調査で、塔心礎と雨落溝が発見されました。基壇面より深く埋め込まれた地下式心礎で、一辺1.2mの花崗岩、柱穴の直径は50.5cm、中央に円錐形の舎利孔がありました。これらの状況から、塔の高さは約20mの三重塔で、7世紀中頃から後半に築かれたと推定されます。

また、この丘にはもともと前期古墳があり、それを削って寺が建立された事が知られています。当社の旧鎮座地については確定していませんが、「日本の神々 河内」で小林章氏は、おそらくは、はじめは鳥坂寺と並ぶように鎮座していたと推定されています。鳥坂寺を鳥取氏の氏寺とする見方もあるようですが、柏原市は複数の氏族を中心とする智識(仏教信者の集団)集団全体で六ケ寺が建立された説を紹介しています。

 

【白坂神社】入口鳥居

【宿奈川田神社(白坂神社)】

同じく鳥取氏の氏神と見られるのが、高井田駅の前に鎮座する白坂神社で、「延喜式神名帳に載る宿奈川田神社です。中世の頃から白坂大明神の名で崇敬されました。ご祭神は高皇産霊神、宿奈彦根命、科戸辺命の三柱と掲示にありますが、旧社家の鳥取氏は少彦名命を祀るとしています。というのは、「先代旧事本紀」が『天少彦根命、鳥取連等祖』とあり、鳥取氏にも同様の系図があるためです。

 

【白坂神社】拝殿は老人会館と連棟

 

ただし、天湯川田神社の掲示には、『宿奈川田神社は(天湯河板挙命の)親を祀っていると言う』とだけ書かれています。「大宮大明神末社帳」に、祭神は宿奈彦名神命で、天湯河川田奈命の祖先の神とする記述がある事に依ったのでしょうか。「式内社調査報告」で棚橋利光氏は、宿奈川田神と少彦名神の違いは気になるので、類似を利用して鳥取氏が出自を皇室の系譜に求めたのかもしれない、との考えを述べておられました。

 

【白坂神社】本殿。流造

 

【平尾山古墳群と高井田山古墳】

大和川を挟んだこの近辺には、当社や宿奈川田神社を始め、金山彦・金山媛神社国分神社伯太彦・伯太姫神社など式内社が数多くあります。古墳遺跡に関しても同様で、大和川対岸・南岸には首長墓クラス墳といえる玉手山古墳群や松岳山古墳群などの100m超級の前方後円墳群があります。

 

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高井田横穴公園入口

 

一方、当社側の北岸においても、当社を南端とする東西4km、南北3kmの範囲に平尾山古墳群があり、1500基の古墳が確認されています。こちらはほとんどが直径10~20mの小形円墳で、(高井田支群を含めた場合)5世紀末から増え始め6世紀後半に築造のピークとなり7世紀末まで続きました。なかでも最も注目すべきなのが、8つの支群の中の高井田支群にある、畿内で最も古いタイプの横穴式石室の一つとされる高井田山古墳でしょう。柏原市立歴史資料館に隣接する高井田横穴公園内にその遺構が保存展示されています。6世紀中頃の高井田横穴群を保存している公園で、その一角にあるのです。

 

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高井田山古墳】プラスチック板で覆われた墳頂の石室展示。上面は結構白濁して透けてないです。

 

高井田山古墳は5世紀終わり頃の築造です。石室は薄い板石を積み上げ、天井はドーム状だったと推定され、朝鮮半島百済によくある形です。2基の木棺が納められていましたが、未盗掘の東側木棺に「ひのし(火熨斗)」(古代のアイロン、百済武寧王陵の出土品と極似)や神人龍虎画像鏡などが置かれていました。二体の被葬者はおそらく夫婦で、当時の日本ではみられない習慣です。これ以外の副葬品の状況も含めて高井田山古墳には朝鮮半島、特に百済から渡って来た渡来人が埋葬されていたと考えられます。また、平尾山古墳群全体としても渡来人が含まれると、柏原市は説明しています。

 

高井田山古墳】石室内。左奥が塞がれた羨道で片袖式なのがわかります

 

【神魂命と鳥取氏】

上記した「姓氏録」の税部という、租税の徴収を職掌とした部の説明によれば、鳥取氏は神魂命を祖神と仰ぐ氏族ということになります。神魂命は「出雲国風土記」の呼称で、記紀では神産巣日之命、神皇産霊尊と表記される神・カムムスヒと考えられています。國學院大學の神名データベースでは、中央政権の神とする説も載るものの、圧倒的に出雲と関係する神とする説に行数が割かれています。また「古事記」の研究で知られる三浦祐之氏は「風土記の世界」で、「古事記」においてタカミムスヒが天皇家の神でカムムスヒが出雲の神として存在するのはまぎれもない事実だとされます。

 

高井田山古墳】 ↑の石室に至る盛土の高まり

 

記紀風土記から約100年後に成立した「新撰姓氏録」の神別氏族の内、カムムスヒ(ほとんど神魂命表記)を祖神とする氏族は30以上あります。よく分からない氏族もあるものの、例えば出雲氏のような素直に出雲と結びつく氏族は、そこには見られません。ただ、賀茂・鴨県主がいたり、天道根命の見える紀直(紀伊国造)系や天日鷲命の見える忌部氏系がそれぞれ複数いたり、さらに三島氏も神魂命を祖とするなど、いずれも出雲伝承・口伝が主張する、出雲と繋がる初期大和勢力(葛城王国)の時代から関りのある氏族達であるように見え、個人的には、神別氏族になるべく神魂命に繋がった感じを受けます。上記した「物言わぬ皇子」所伝が、記紀共に出雲で話が決着していることも気になってしまいます。そして、そういう鳥取氏は神別なのですから、古墳時代の朝鮮渡来人とは無関係です。

 

高井田山古墳】柏原市立歴史資料館の「ひのし」展示。奥は神人龍虎画像鏡

 

【神社祭祀氏族と古墳築造集団の齟齬】

つまり、大和川南岸の国分神社と松岳山古墳群や、伯太彦・伯太姫神社と玉手山古墳群のそれぞれの関係に感じた祭祀氏族と古墳築造集団の齟齬が、この天湯川田神社と高井田山古墳にも同様に感じられるのです。松岳山と玉手山の墳築造集団に関しては、後に古市古墳群の造営集団に発展したとは考えられず、没落しただろうと柏原市は説明します。

 

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公園内に点在する横穴。ここは上下2段です

 

一方、「柏原市史」に、当社から2kmほど東にあるJR関西線河内堅上駅から少し西側の大和川にそった平地について、昔から地元では鳥取千軒と呼ばれていたと書かれていて、そういう鳥取氏の居住地である事が確かな場所に、百済系の様式の横穴式石室が初めて築かれた事情とは、どのようなものだったのか不思議です。

 

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一つの憶測として、そもそも大和川南岸で古墳を築造していた人達が、松岳山古墳群との関係が考えられる佐紀古墳群が築造され始めたくらいの時期に、圧迫されたか何らかの事情で大和川北岸に移動し鳥取氏につながっていった流れは考えられないでしょうか。考古学的には佐紀古墳群はそれまで見られた三角縁神獣鏡の確実な出土例がなくなり、新興の倭製鏡が副葬されるように変わっていくと見られています。3世紀以降の三角縁神獣鏡の配布(松岳山古墳群からも出土)で他地域との関係を保った時代から、いわゆる朝鮮半島との関係を重視する「和の五王」の時代へ変わろうとしつつある時代にあたるのです。

 

3-5号横穴下には線刻壁画の復元が置かれます

 

気になる話が、「式内社調査報告」にあります。「河内志」に宿奈川田神社の地が大和川を挟んだ南西の北片山村(今の片山町には玉手山1、2号墳が含まれる)の故墟だとあるそうです。「白坂社記」にも、白坂社の神地が片山村で、村の人が白坂社の祭祀に参加すると書いています。ただし、玉手山古墳群と松岳山古墳群の間でも、墳形や副葬品等々の特徴が異なり、築造集団として切り離して考えるべきとの見解もあるので、詳しく見るとそうそう単純にはいかないのでしょうか。

 

白坂神社前から大和川越しに松丘山を望む

 

(参考文献:柏原市公式HP、神社説明掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍