摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

五毛天神 河内国魂神社(兵庫県神戸市灘区国玉通) 出雲信仰が偲ばれる西摂津に勢力を張った凡河内氏と三島県主の関係

[ かわちくにたまじんじゃ ]

 

神戸らしい、六甲山に至る斜面上にならぶ穏やかな住宅街の中に、この古めかしい古社が鎮座します。こちらがズバリ、凡河内氏が関わるとされる「式内社河内国魂神社」を名乗る神社ですが、その頭に「五毛天神」名も付され、あくまで天神さんである事を静かに主張しているようです。

 

少し一般道を歩いて境内へ

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、大己貴命少彦名命、そして菅原道眞公。先に二柱に関して当社は、相協力して国土経営に当たられ、広く崇敬されているとしつつ、一説には摂津国造である凡河内忌寸の祖、天御影命を祀っていたのであろうとの言われもあるが、今となってはわからないと書き添えています。道真公については、大宰府謫遷の途次に、師父尊意僧正(延暦寺第13代法王)と当社頭において餞別せられた時の応対が極めて慇懃丁寧で、その様子をかいま見た村人たちが菅公の没後、その霊を勧請合祀して俗に五毛天神と称するようになり、今に至るとしています。

出雲の二神が祀られた具体的経緯は不明ですが、江戸時代には天満宮として崇敬されていたのが、以下の経緯で少し不本意な形で現在の社号を名乗るようになりました。

 

こんもりした境内はさらに奥です

 

【「五機内志」の式内社比定】

江戸時代の地理志として、「河内志」「和泉志」「摂津志」「山城志」「大和志」からなる「五畿内志」が有名ですが、これは江戸幕府の幕撰地誌とみられるもので、最終的に並河誠所が編纂したものです。ここで、従来不明だった「延喜式神名帳式内社菟原郡河内国魂神社が、五毛天神社に当てられたのです。

「日本の神々 摂津」で落合重信氏は、その比定の考証過程が全然示されておらず、並河が何をもってこれを河内国魂神社にあてたのか全くわからない、と書かれます。ご祭神も先に記載した三柱になっていて、本来祭神となるべき凡河内氏の祖である天津彦根命や天御影命が見当たらない事にも疑問を呈されており、このような意見から現在当社はご由緒で天御影命に触れていると思われます。

以上の事情から、東灘区の綱敷天満神社の方が「河内国魂神社」にふさわしいのではないか、とする推測が囁かれるのです。

 

境内。左手に天神さんの神牛像

 

【「河内国魂神社」石碑】

1735年から翌年にかけて「五畿内志」は出版されますが、1736年9月に庄屋が大坂奉行所に呼び出され、並河によって五毛天神が河内国魂神社に定まったので石碑をさしつかわすから建てよと命ぜられました。庄屋は村民と相談し、古来、天満宮として信仰してきたのだからと一旦断ったようですが、河内国魂神社とは「延喜式」の摂州菟原郡三社のうちの一つで有難い事ではないか、と押しきられてしまったのです。

その石碑は本殿の脇にあるらしく、高さ92センチ、横24センチの石柱で、「菅広房建」という寄贈者の名前が神社名と共に刻まれているそうです。

 

拝殿

 

【祭祀氏族】

凡河内氏には天津彦根命系と天穂日命系の2系統があるようで、詳しくは綱敷天満神社の記事で記載しましたので、そちらをご参照下さい。

 

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祭祀氏族の異説としては、当社の南側に天城通があり、そのあたりが昔の天城郷にあたりますが、「和名抄」高山寺本はアマシキと訓でいて、これが布敷郷の「野の志紀氏」に対する「天の志紀氏」の意味だという説が出た事がありました。志紀氏とは、志貴県主神社を祀った河内国を本貫とする氏族なので、河内国魂神社がまつられたのだろうと言われたのです。しかし落合氏によると、布敷郷は本来は武内宿祢後裔の布忍(ヌノシ)首に因む地名というのが定説なので、志紀氏はふさわしくなく、河内国魂を祀るのはこの地方に勢力を張った凡河内氏のほうが適任とみておられました。

一方、「式内社調査報告」で吉井良隆氏は、この地が凡河内氏の居住した地で、その祖神である天御影命に縁故のある地域であると思われるのは当然だろうが、社伝にはその神の痕跡が全くなく、古くから大己貴命少彦名命が祀られて来た事に留意されます。これは、国魂信仰の一環として、早くからこの地に居住していた出雲系氏族の国土神を奉斎していたと考えるのが妥当で、後に移住してきた凡河内氏に引き継がれたのではないかと考えられるが、なんら裏付ける資料がない推測なので今後の研究を待つ、とされていました。

 

皇紀二千六百年の拝殿扁額。本殿は境内から窺えません

 

【桜ヶ丘遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸】

綱敷天満神社で少し取り上げました、1964年に銅鐸14点(全て国宝)が発見された桜ヶ丘遺跡は、当社からも綱敷社と同様の位置関係になります。全て神戸市立博物館で見学てきますが、特に有名なのが、袈裟襷文の各区画に人・動物・昆虫が描かれた、4号・5号銅鐸でしょう。他にも1号・2号銅鐸にシカ・トンボ等が、6号銅鐸には渦文が施され、博物館ではいずれも絵が綺麗に残っている様子が見学できます。

 

桜ヶ丘3号銅鐸(神戸市立博物館特別展にて)

 

その14点の中に、1996年に出雲の加茂岩倉遺跡から発見された銅鐸39点(!)のうちの31・32・34号銅鐸と同笵(同じ型製)だと確認されているのが流水文式の桜ヶ丘3号銅鐸です。さらに鳥取県岩美町の上屋敷銅鐸も同笵です。加茂岩倉31号銅鐸には、「×」印がある事が特筆されます。桜ヶ丘と加茂岩倉共に、埋納時期は弥生時代中期末から後期初頭と考えられています。同笵の意味は明確でないですが、少なくとも同じ場所で造られた事は確実で、製作地を通じて何らかのつながりがあったと思いたいところです。

 

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加茂岩倉31銅鐸(神戸市立博物館特別展にて)

 

【「日本書紀」に見える摂津三島の凡河内氏】

凡河内氏の氏人は、「書紀」の数少ない三島に関わる記述のなかで2度も登場することが知られます。1度目は、雄略紀で凡河内直香賜が采女を犯した科で、三島郡藍野で誅殺された話。藍野が出てくるのは、三島が当時の凡河内氏の勢力下だった事を意味するとの説があります。5世紀後半頃と思われます。

 

境内を出て、西側から本殿屋根(木の奥)を望む。破風が付きます

もう一つは安閑紀。凡河内直味張が良田を屯倉として出し渋った後に、三島県主飯粒が三島の竹生の土地を喜んで献上。天皇の使いの大伴大連から味張に、今後、郡司の役に就く事を禁じられると、味張は、群毎にクワヨボロ(田部に似たものとされる)を春に五百人、秋に五百人、天皇に奉ると約束しました。時期は6世紀前半頃が想定されます。これが、今の高槻市の地名、東五百住(ヒガシヨスミ)、西五百住の由縁だとする説もあります。

いずれも、凡河内氏には良くない話です。

 

後方より。置き千木のある流造。

 

【凡河内直と三島県主】

少し以前の論考ですが、「凡河内直と三島県主」で角林文雄氏は、香賜の時期に凡河内氏の拠点だった場所を、味張の時期に三島県主が献上するのは、この時期の間に両者の力関係に変化が生じ、凡河内氏が弱体化した事の表現だろうと考えておられました。三島県主は6世紀に継体大王と緊密になる事で力を付けていっただろうということです。

「郡司」という役はその当時存在したものでなく、難波の在地長官的な役割を凡河内氏は担っていたと角林氏は推定されています。あくまでヤマト政権の官僚として、神戸地域の西摂津から東の三島に進出し、三島地域の開発を進める過程で三島県主に圧力をかけていただろうということです。

 

伊弉冉命市杵島姫命を祀る境内社

 

そして、その5世紀の三島開発の象徴とされる太田茶臼山古墳の被葬者として、角林氏は凡河内氏を想定されます。以上の説は、考古学的に、富田台地の東側にある三島県主に繋がる墳丘長100mクラスの首長墓系譜・弁天山古墳群(4世紀中心)に対して、富田台地西側に墳丘長200mを越える巨大前方後円墳・太田茶臼山古墳を中心とする、階層構成型古墳群が5世紀に現れると理解されているのと、おおまかには矛盾はない説明です。

 

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伊勢神宮遥拝所と荒川大明神鳥居

 

【三島の太田茶臼山古墳

太田茶臼山古墳の被葬者像は、他の古墳同様に現在も議論が有り定まっていませんが、おおむね以下の4説にまとめられるようです。

  1. 在地の首長系譜から台頭してきた人物
  2. 淀川流域を統合した在地の盟主的首長でヤマト王権中枢を担った人物
  3. ヤマト王権中枢をになう他地域の盟主的首長
  4. 大王近親・王族

角林氏の説は、上記3番に当たりますが、その他で良く語られるのが4番でその一部の説を以前の太田茶臼山古墳の記事で取り上げました。あと、さすがに1番にあたる三島県主など在地の人物を当てるには、地域豪族単独の築造にしては巨大すぎるという説も良く聞きます。

 

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荒川大明神。お稲荷さんです

 

「淀川流域の古墳時代」の中で梅本康広氏は、これほど大きな存在の太田茶臼山古墳の築造背景が文献史料からはまったく見出すことができないのはきわめて不自然で、そのこと自体が古墳被葬者の性格の一端を示唆しているのではないか、と説明されます。この考え方に寄せれば、王族の人物よりも凡河内氏のような、記紀制作時点ではあまり有力でなくなった氏族の人物の墓だったとするのがふさわしそうに、個人的には感じられます。

 

一の鳥居は高い松が目立ちます

 

(参考文献:五毛天神河内國魂神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、広瀬和夫・梅本康広編「淀川流域の古墳時代」、新谷尚紀「神社とは何か」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、大橋信弥「継体天皇と即位の謎」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍