摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など、古代からの要衝である高槻市から史跡を巡って、諸説や伝承など多角的で多くの情報を取り上げたいと思っています

菅原天満宮(菅原神社:奈良県奈良市菅原東) 菅原東埴輪窯跡が由緒の古さを証明する日本最古の天満宮

[ すがわらてんまんぐう/すがわらじんじゃ ]

 

奈良の平城京跡遺跡公園として復元の朱雀門や大極殿が整備されている地域の直ぐ西方に鎮座する神社です。菅原道真公を祭る天満宮ということですが、「延喜式」神名帳に載っている天満宮?ということで、その古い由緒を確かめたく参拝をさせていただきました。こじんまりした境内ですが、平日でも参拝者が散見され、一目置かれる古社だと感じました。

 

境内はこじんまりしていますが、綺麗に整っています

 

【ご祭神・ご由緒】

現在のご祭神は、天穂日命、野見宿禰命、菅原道真公の三柱です。当社は「日本最古の天満宮」と謳っておられますが、確かに「延喜式」神名帳の大和国添下群の小社「菅原神社」と見えるのが当社ですので、「延喜式」以降に登場する天満宮各社に対して確かに一番古いことになります。つまり、古墳時代に古墳築造・埴輪や土器製作で活躍した土師氏から分かれた氏族の一つである、菅原氏の旧館の地に鎮座した神社とみられています。

 

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拝殿前の梅樹

 

ただし、927年の「延喜式」式内社のご祭神に天神・菅原道真公が祀られたはずはないわけで、「社記」には古く祭神は「新撰姓氏録」で土師氏の祖神とされる天穂日命一座であり、いつのころからか天穂日命の後とされる野見宿禰命と菅原道真公を配祀して三座としたと書かれているようです。「天満宮」を呼称し始めたのもこの経緯からでしょう。当社の東100メートルのところに、菅原道真公の産湯池と伝えられる天神堀がありますが、「日本の神々 大和」での土井実氏は定かでないとし、「式内社調査報告」での大矢良哲氏は菅家の旧館だったとする事からの誤りだとみておられました。

 

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それよりも、当社が「最古の天満宮」と称する正当性や根拠は、後述する、西方400メートルほどの場所に1990年に発掘された菅原東埴輪窯跡(菅原はにわ公園)にこそあると思います。

 

拝殿

 

【祭祀関連氏族・土師氏】

当社の入口にあるご由緒書きでも説明されるのが、「日本書紀」垂仁天皇三十二年条にみえる、野見宿禰命の伝承です。日葉酢姫命の陵墓を築造する際に、それまでの殉死にかえて埴輪~ここでは人の代わりだから人形埴輪を建てることを進言した話で、この中で野見宿禰命が土師連氏の先祖だと書かれ、これが土師連氏が天皇の喪葬を掌る始まりとなったというものです。以降、「書紀」だけでなく「続日本紀」に至るまで、葬礼に関わったり諸陵司や喪儀司の官人になった人がたくさん登場します。「書紀」天武天皇十三年条には、宿禰の姓を賜ったことがみえています。古墳時代の土師氏の拠点は、大和の当社鎮座地付近の他に、河内の百舌鳥・古市古墳群にもあったと考えられています。

 

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8世紀になると土師氏の伝統的職掌が火葬の普及とともに衰微していき、官人としての叙位も五位程度で外位に置かれるようになります。それまでも、軍事(土師連馬手ら)や外交(土師連八手ら)に関わる氏人が散見されるのも、律令制に適応する新たな道を探る動きだと見られています。

 

社殿

 

【土師氏の分立と菅原氏】

その打開策として、「続日本紀」781年に土師宿禰古人と土師宿禰道長ら15名が改姓に関する奏上をしたことがみえます。つまり、『もっぱら凶儀のみに仕えるのは、祖先以来の業をふりかえって考えると、我らの意図するものではない』と言って、土師の姓を改め、居地に従い菅原とすることを申請し、許されるのです。これが当社に関わる菅原氏の始まりとなりました。

 

本殿。祝詞殿と拝殿がつながります

 

782年には同族の土師宿禰安人らが秋篠と称することを許され、また790年には朝臣姓を賜り、桓武天皇の外祖母である土師宿禰の一族らが大枝朝臣を称することが許されます。こうしてもともと四つの系統があったとされる土師氏が、菅原朝臣、秋篠朝臣、大枝朝臣の三氏に分立していったのです。これにより、従来からの職掌から解放されます。

 

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菅原朝臣氏の一族は文人・学者が多く輩出しています。上記の奏上をした古人と道長は親子で、古人の別の子の清公は遣唐判官を務め唐にも行った人。帰朝後には天皇の侍読となり、「令義解」などの選者になっています。その清公の子が是清で、この人が道長の父です。是清も学業優秀の人で、文章博士など儒門の要職を歴任し、「文徳実録」の編修にも加わっていました。有名な道長公以前にも、重要な書物にことごとく関わっていた人たちだったということです。

 

本殿。色彩が残っています

 

【野見宿禰による埴輪伝承の真偽】

「日本書紀」の野見宿禰の埴輪伝承においては、最初の埴輪が殉死の人の代替策としての埴輪、つまり人物の埴輪だという話になっていますが、考古学の発掘遺物の積み重ねから実際の埴輪形態の変遷は違うことが明らかになっています。

つまり、最初の埴輪は円筒埴輪であり、粘土(埴)で紐を作ってそれを円状(輪)に積み上げて形を作っていくので、「埴輪」の名前が付いているのです。起源は弥生時代後期に中国地方(吉備など)で作られた特殊器台です。吉備で作られたと推定される特殊器台が3世紀中頃築造とされる箸墓で出土しており、さらに箸墓では円筒埴輪の初期のものも存在するので、大和盆地南東部で特殊器台→円筒埴輪に変化し成立したと考えられています。

 

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その後、鳥形や家形などの形象埴輪が4世紀に出現し種類も増えていきますが、人物埴輪が現れるのは5世紀中頃とされています。垂仁天皇が実在したとして、その時代は4世紀前半なので、全く時代が異なります。野見宿禰伝承は、土師氏の職掌の根拠を分かりやすく顕彰するため後に作成された説話ということです。

 

菅原はにわ公園

 

【菅原東埴輪窯跡遺跡(菅原はにわ公園)】

当社から東に10分弱歩くと、住宅街ならどこにでもあるような小さな公園に着きます。これが1990年に発見されたという6基の窯跡遺跡で、各窯の位置表示や、そのうち一つの3号窯(公園前の道路近くから出土したものを、公園内の現位置に移設展示)については、金属格子で保護して窯内部の発掘状況を透明パネル越しに見学できるよう保存処置がされています。

 

金属枠内に3号窯が保存されます。その前に古墳時代中期の溝が復元されます

3号窯に対面していた2号窯の位置がわかるようになっています

 

埴輪窯自体は古墳時代後期の6世紀のもののようですが、登り窯の下部にあたる焚口に面する溝部(通路か)は古墳時代前期の4世紀のもので、ちょうど北方にある佐紀古墳群の御陵山古墳(日葉酢媛陵墓)・石塚山古墳(成務天皇陵墓)や、南方にある宝来山古墳(垂仁天皇陵墓)の築造時期に一致します。さらに、この窯群の西方には4世紀後半から5世紀前半の豪族居館とみられる遺構も検出されていて、これが土師氏の居館である可能性が考えられているのです。これら遺跡群が式内社・菅原神社とつながることは間違いないのでしょう。

 

3号窯内部の様子

 

【社殿、境内】

古めかしい風貌で色彩が残る本殿は、寛保年間(1741-44年)の再建によるもので、流造。昭和の時代は檜皮葺だったようですが、現在は銅板葺きのようです。向拝付きで正面に昇高欄と袖高欄をほどこし、前方に祝詞殿と拝殿が接続します。境内には、昭和の時代に建立された「筆塚」が存在感を放っていました。

 

境内の筆塚

 

【菅原の地名】

「菅原」の地名は、菅の原という意味による、スゲの自生する草原に因むもので、古きは平城京より以西、京外の丘陵地帯も含む広い地域の呼称であったと考えられます。「続日本紀」には、元明天皇が和銅元年(708年)を皮切りにたびたび菅原に行幸したすえに、菅原の民家90余家を他に遷させて布穀を賜ったとみえますが、これは平城京造営にあたり、その予定地にあった菅原の人家を遷させたことを表わしているようです。かつては平城京に含まれた場所だったのです。

 

臥牛。社務所横に置かれていました

 

(参考文献:菅原天満宮公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)

葛木倭文坐天羽雷命神社(奈良県葛城市加守) 掃守神職と倭文氏のそれぞれの先祖に偲ぶ古代の葛城

[ かつらぎしどりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ ]

 

二上山・雄岳の登り口にあたる、加守(カモリ)集落の高台に鎮座します。うっそうとした社叢に覆われた境内はほの暗く、思わず身構えてしまう独特の雰囲気でした。入口の石標では「二上神社 倭文神社 加守神社」と三社が併記されて一つの本殿で祀られていますので、倭文社を中心に取り上げつつ相殿の二社にも触れたいと思います。

 

ほの暗い境内

 

【ご祭神・ご由緒】

葛木倭文坐天羽雷命神社のご祭神は、倭文の祖 天羽雷命。「日本書紀」では『武葉槌命』と表記され、出雲の国譲りの話に登場します。最初に葦原中国に派遣された天穂日命が大己貴神におもねり、次の天稚彦命も大己貴神の娘・下照姫を妻にしてしまった後に、天稚彦命自身が遣わされる際に授けられた天鹿児弓と天羽羽矢が高皇産霊神から射返されて亡くなります。そして、続いて遣わされた武甕槌神と経津主神がついに葦原中国を平らげるのですが、従わないのが星の神・香香背男だけとなったとき、武葉槌命を使わして復させたとあります。

 

社殿への登り石段

 

その本来の意味は、「アメ」「タケ」は美称、「ハ」は布帛(織物の総称)、「ツ」は助詞、「チ」は「貴」だといわれ、布帛の神だとされています。「古語拾遺」「先代旧事本紀」には、天照大神が天岩戸隠りのとき高皇産霊神の指示により文布(シヅ)を織った神だとあり、『倭文の遠祖也』とみえます。シヅは「倭文」「文布」と表記され、朝鮮半島や中国から伝えられた「アヤ」に対して、我が国古来の文様の美しい布帛のこととされ、シドリはシヅオリのつづまったものであると、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が書かれています。

 

拝殿

 

【祭祀関連氏族】

「倭文」の氏名は「委文」とも作り、「シトリ」「シドリ」「シツオリ」と読むようです。織物生産の部である倭文部を率いた伴造氏族。中央の伴造氏の主流一族は、天武天皇十三年に宿禰の姓を賜っています。

 

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「新撰姓氏録」では、大和・摂津・河内国にそれぞれ見え、大和国神別の委文宿禰が『出自神魂命之後大味宿祢也』、摂津国神別の委文連が『角凝魂命男伊佐布魂命之後也』、そして河内国神別の委文宿禰が『角凝魂命之後也』と記されます。角凝魂命といえば、河内国の三野(美努)氏(御野県主神社)や鳥取氏(天湯川田神社)の系譜にも見える神魂命の子神(山城国神別 税部氏の記載から)であり、つまりはすべての委文氏は神魂命の後裔ということになります。

 

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神魂命は「出雲国風土記」の呼称で、記紀では神産巣日之命、神皇産霊尊と表記される神・カムムスヒと考えられています。國學院大學の神名データベースでは、圧倒的に出雲と関係する神とする説に行数が割かれています。また「古事記」の研究で知られる三浦祐之氏は「風土記の世界」で、「古事記」において、タカミムスヒ(高皇産霊神)が天皇家の神で、カムムスヒが出雲の神として存在するのはまぎれもない事実だとされます。

 

扁額には「二上神社 倭文神社 掃守神社」と刻まれます

 

倭文氏の祖神に関して異伝もあります。「古史伝」-古語拾遺では、比売久波神社のご祭神の一柱である天八千千姫(アメノヤチチヒメ)が天棚機姫命(アメノタナバタヒメ)の別名で、天照大神が天岩屋戸に隠れたとき、高皇産霊神の命により大神に奉るべき神衣を織った機織りの神であり、倭文氏がその末裔だとあります。ただ、比売久波神社と倭文氏の関係は不明です。

 

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【倭文氏の分布】

一方、当社鎮座地付近にはシドリの地名はなく、祭祀氏族として倭文氏がこの地に居住したとの確かな根拠もないと、木村氏は述べます。加守のすぐ北に大字畑があり、織(ハタ)ではなかったか、とも言われています。「式内社調査報告」には、「当麻町史」での梅田義彦氏の説が引用されていて、機織の神を祀る倭文神社が倭文氏によって全国に祀られたのだろうとして、『この葛木倭文坐天羽雷命神社も官社たる倭文神社の一に外ならない』とのことです。

 

垣に隙間から本殿を望む。向かって右側の祠は諏訪神社

 

委文・倭文氏の分布は、畿内では山城・大和・摂津・河内、地方では伊豆・常陸・因幡・出雲・播磨にみられますが、これ以外に倭文(静)神社の所在地や倭文の郷里名との関係から、伊勢・駿河・甲斐・近江・上野・下野・丹後・但馬・伯耆・備中・美作・淡路に倭文氏や倭文部が存在したと推察され、分布の特徴として東海・東山の東国二道と山陰道に多いことだと、「日本古代氏族辞典」にあります。地方の伴造氏族の姓としては、連・臣・臣族・首姓の者がいるようです。

 

本殿。三間流造

 

【神階等古代記録】

「新抄格勅符抄」の806年の牒に『倭文神二十三戸大和一戸』とあり、「三代実録」の859年には従五位上に昇叙されています。「延喜式」神名帳では葛下郡十八座の筆頭に大社として登載されます。また同書の玄蕃寮式には、新羅の使節が入朝した際に難波館で給う神酒の醸酒料として、当社から摂津の住道社に稲三十束を送ることが定められていました。

 

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【社殿、境内】

本殿は三間社流造の唐破風付きの屋根を持ち、中央に天羽雷神、右に掃守神社(祭神・天忍人命)、左に二上神社(祭神・大国魂命)を配祀しています。本殿の左右にも境内社が祀られていて、向かって右が諏訪神社(祭神・建御名方命)、向かって左が天神社(祭神・菅原道真公)です。

 

本殿向かって左側の天神社

 

【掃守神社・二上神社】

掃守神社のご祭神は天忍人命。「古語拾遺」では、神武天皇の父にあたる鵜葺草葺不合命(彦波瀲武)のお産の時、海浜に室を立て、掃守連の遠祖天忍人命が付き添って箒を作り蟹(胎便のこと)を掃ったとされ、これを以て職とし「蟹守」と名乗ったと書かれます。

掃守(カニモリ)氏は宮廷の掃除・舗設を職とする品部の掃守部を率いた伴造氏族で、「新撰姓氏録」の左京神別と河内国神別に『掃守連。振魂命四世孫。天忍人命之後也』とみえる他、同書和泉国神別には『掃守首。(中略)雄略天皇御代。監掃除事。賜姓掃守連』ともあります。その一方で、「先代旧事本紀」神代本紀では、『振魂命。児前玉命<掃守連等祖>』との説明になっていて、天忍人命はというと天孫本紀の尾張氏の系譜の中に登場し、掃守氏と異なる系譜の神になっています。

 

入口石標付近の社務所入口。由緒の古さを感じさせます

 

二上神社のご祭神は、豊布津霊神(経津主神)又の名武御雷神(武甕槌神)と大國御魂神。二上山の頂上に鎮座する式内社・葛木二上神社の分霊を祀ったものか、あるいはその遥拝所であったか定かではありませんが、当社と葛木二上神社が因縁浅からぬことが分かると「式内社調査報告」には書かれています。なお、『豊布津霊神又の名武御雷神』と、物部氏の祖神と藤原氏の祖神が重なるのは、香取神宮の記事に書いた事情によるのでしょうか。

現在、天羽雷社をはじめ加守社・二上社の三社とも、掃守家が神職を務められているようです。

 

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【倭文氏と掃守氏】

掃守氏の始祖の振魂命は、右京神別の『八木造。和多羅(和多罪)豊命児布留多摩乃命之後也』の『布留多摩乃命』であり、その親『和多罪豊命』は「綿積豊玉彦命」であるので、掃守氏は安曇(阿曇)氏の系譜につらなる、広い意味の海人族ということになりそうです。

 

神社付近からの大和盆地。曇り空で、うっすら耳成山(中央)と畝傍山(右)が見えました

 

その振魂命の後の天忍人命と、「旧事本紀」天孫本紀の天忍人命が明確に重なるようにはみえませんが、金久与一氏は、(「熱田神宮縁起」が尾張氏の別姓とする)海部氏と安曇氏のそれぞれの世系の中に同一の祖先の建位起命(安曇氏側系譜では振魂命の後)を持つことに注目されています。つまり、遠い親戚かもしれないということで、出雲伝承・口伝でも(根拠は不明ですが)同様な主張をしていました。

となると当社は、海人族系の神職が出雲と関わる神様をまつっているという構図になり、出雲伝承が主張する、いわゆるヤマト王権の出現前、この葛城でアマ氏系と出雲出身の豪族(葛城カモ氏)が勢力を持っていたという話に関係するかもしれない感じはします。

 

二上山の雄岳

 

(参考文献:葛木倭文神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「先代旧事本紀訓注」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、篠川賢「物部氏」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)

葛木御県神社(奈良県葛城市葛木) 大田田根子と葛城の関りからみる葛城国造・剣根命

[ かつらぎのみあがたじんじゃ ]

 

「大和の六御県」でまだ参拝していなかった葛木御縣神社を訪れました。住宅街や学校の隙間にかろうじて鎮座している風ですが、そこに至るには下記するような変遷があったことに、改めて気の遠くなるような長い歴史をくぐりぬけてきた地域の信仰の強さを感じました。また、ご祭神の一柱、謎の神・剣根命が何者なのかについて大いにロマンをつのらせました。

 

こんな感じで鎮座します。☝見出し写真の入口は向こう側です

 

【ご祭神・ご由緒】

社伝では、ご祭神を邇邇芸命と天剣根命とします。ただし、神社に備え付けられた解説文(葛城市歴史博物館の神庭茂氏による。2023年12月付)によると、邇邇芸命一柱であり、剣根命については、葛城国造(葛城直氏。武内宿禰後裔の葛城氏とは別氏)の祖先とされることから結び付けられて、明治時代になって合祀されたと説明されています。

本来は、下記に記します大和の六御県の一つ・葛木御県に坐す神、御県の国魂神であったろう(「延喜式」祈年祭の「祝詞」には「御県に坐す皇神等」とある)と、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。創祀年代はご多分に漏れず明らかではありませんが、御県神社は大和のみで祀られている事、しかも朝廷にゆかりの深い六郡にのみ限られていることからも、創立は古いとみられます。木村氏は、おそらく飛鳥・藤原京時代にまで遡るだろうと考えておられました。

 

参道を進んでの境内

 

【大和の六御県】

大和の御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位、すなわち大王の直轄地のことだと言われています。「日本書紀」大化元年(645年)八月条に『其れ倭国の六県に遣さるる使者。戸籍を造り、幷て国畝を校ふべし』と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されていました。

 

・高市郡 高市御県神社(名神大、月次新嘗) 

・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗) ☚当社

・十市郡 十市御県坐神社(大、月次新嘗)

・城上郡 志貴御県坐神社(大、月次新嘗)

・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)

・添下郡 添御県坐神社(大、月次新嘗)

 

鳥居正面から

 

【神階等古代記録】

730年の「大倭国正税帳」は断簡で葛下郡を欠いているので当社の事は不明ですが、そこには添御県、志貴御県、十市御県、山辺御県の各社の名がみえることから、六御県社それぞれに大和国の神戸を有していたと考えられます。「新抄格勅符抄」に見える806年の牒によると、当社は備前国に封戸を授けられています。859年に神階が従五位下から従五位上に昇叙され、「延喜式」神名帳には『葛木御県神社 大。月次新嘗』と堂々の大社として登載されています。

 

社殿

 

【鎮座地の移動と飯豊女王陵墓】

天皇家や古代豪族の権威が平安時代を経て時代とともに失われるにつれて、国家が祭祀した神社の多くは衰微しましたが、当社もその例にもれず、八幡神社(武神)や天満神社(学問神)など時流にのった新興の神社におさえられた、と木村氏は古社の衰退経緯を説明されます。

そして江戸時代に鎮座地の変更があったことが「大和志料」にみえます。つまり、当社はそもそも桑海村にあったのを、永宝八(1680)年に領主の桑山氏の信仰する諸鍬・八幡二神を北花内村埴口陵(飯豊女王陵)の上に遷し祀ることになり、その際に当社を含めた近郊の十村の産土神をも同じところに鎮座させられたのです。その中で八幡神の祠を本社として、その他の神社は末社とされました。

 

拝殿

 

それが、幕末の元治元(1864)年に、現在でいう陵墓にあたる古墳を修造(文久の修陵)することになり、当社が式内社でも特に大社であるということが重視されて、他の諸社とは独立して再び故地に復祀されることになったのです。ただ、そのときすでに桑海村の旧地は西光寺の地蔵堂の一角を除いて人家が密集していたため、その西100mの現在地に遷座されました。

国立公文書館内閣文庫所蔵「山陵図」では、文久修陵前後の飯豊女王陵の様子が描かれた絵図が確認できて、前の「荒蕪図」では、前方部西南の角から延びる参道が有り、朱塗りの鳥居と八幡宮の社殿が確認できます。南側の一段下がった部分には、四棟の建物の屋根が木々の間から覗いており、神主と禰宜の居宅とみられています。

 

本殿。春日造

 

【葛城御県の設置と剣根命】

この南葛城地域は、古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀末)は葛城鴨氏、古墳中期(4世紀末~5世紀末)以降は葛城氏の勢力域と考えられています。当社の西方300mそこそのの所に、現在は屋敷山公園として整備されている屋敷山古墳(5世紀中頃の前方後円墳、墳丘長135m)があり、葛城氏の古墳とみられます。それが、ヤマト王権の直轄地になった経緯については、「日本書紀」の記述から研究者により検討がされています。

 

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そもそもの発端は、安康天皇を殺害した眉輪王をかくまった葛城円大臣が、雄略天皇に責められ、その贖罪の為に「葛城宅七区」を天皇に差し出したことにあります。その雄略天皇の時期に葛城氏は滅亡したとみられますが、天皇の没後は、葛城氏の血筋を引く飯豊女王(天皇とも。その伝承地が角刺神社)や顕宗・仁賢天皇の時代となり、これら大王クラスが基盤としたのが「葛城宅七区」であり、それが後に葛城御県に編成されていったとの説が有るのです(平林章人氏)。

このことが、「書紀」の推古天皇三十二年に、葛城氏と始祖・武内宿禰を同じくする蘇我馬子が推古天皇に対して、「葛城県」を祖先の地であるからと主張して返還を求めたことにつながるとみられます。対して推古天皇はこれを拒否しています。

 

屋敷山公園。屋敷山古墳の後円部先端部です。江戸初期は新庄藩の桑山氏が「陣屋」として使用

 

ただ、上記の経緯は理解できるものの、それでは「書紀」の神武天皇二年に『剣根を葛城国造とした』と書かれた事とどう繋がるのか、が気になります。剣根命の後裔は「新撰姓氏録」大和国神別に『葛木忌寸。高御魂命五世孫。剣根命之後也」と記される葛木氏で、これが県主や国造となった豪族であり、武内宿禰後裔の葛城氏とは全く別だからです。「先代旧事本紀」天孫本紀では、『葛城の土神剣根命』とその由緒の古さが強調されていたりもします。

 

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【剣根命後裔・荒田氏と大田田根子】

ここで、「姓氏録」和泉国神別で同じく剣根命の後とされる荒田直氏に注目したいです。大阪府堺市の陶荒田神社の社名にもなっている豪族で、この神社は大田田根子も祀られています。(大国主命の後の)大田田根子は三輪君と葛城鴨君の祖であり、大田田根子の孫の大鴨積命が葛城・御所市に祀ったのが鴨都波神社だとする由緒もあります。「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏は、『(剣根命後の)荒田直と大田田根子は大和葛城でも結びつく』と書かれています。そして、長柄神社の記事で記しましたように、考古学の発掘成果から葛城鴨氏は古墳時代前期(あるいはそれ以前も)から葛城地域に勢力を持っていた可能性が高い豪族と見ることができのです。

 

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陶荒田神社の鎮座地はその名前から分かるように、「書紀」で大田田根子が見つかったとする陶邑に関りますが、この「陶」は5世紀始めから盛んに製作される土器・須恵器を指すと見られています。一方、三輪山の祭祀遺跡でその須恵器が出土することから、和泉の陶邑にルーツを持つ三輪氏が、古墳時代中期(4世紀末から5世紀末)以降に三輪山に進出して三輪山の祭祀を行うようになったとみるのが、現在の定説らしいです。

 

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屋敷山古墳の後円部を登る

 

しかし、三輪氏・葛城鴨氏と剣根命後裔の葛木氏は、陶邑や大和葛城で結び付き、葛城鴨氏は古墳時代前期以前から大和南部に居住したとみられるのですから、これら豪族は少なくとも古墳時代前期から和泉地域を含んだ畿内南部で活動をしていたと思いたくなります(出雲伝承・口伝は、大田田根子は葛城鴨氏や磯城の三輪氏の分家と主張)。大和岩雄氏の、『須恵器生産の新しい技術は、葛城国造や鴨君などの仲介を得て、はじめて三輪の地に入ったという事実を(中略)大田田根子伝承は反映しているのであり、陶荒田神社も葛城鴨氏にかかわる荒田直らが陶邑に居住して、祀ったものなのであろう』という考えが理解しやすいです。

 

ということで遠回りしましたが、剣根命は葛城御県神社に直接つながらなくても、その鎮座した地域のそもそもの産土神であり、この神は出雲系の葛城鴨氏に近いかもしれない(高御魂命の後というのが引っ掛かりますが…)という、個人的な感想を持ちました。

 

後円部から前方部方向と思われますが、墳形ははっきりしません。絶景です

 

(参考文献:葛城氏歴史博物館説明書、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、、谷川健一編「日本の神々 大和・和泉」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)

氷室神社(奈良県天理市福住町/奈良市春日野町) あてなる氷を凍らせるため山間幽谷の地に祀られた「氷室」の守護神

【福住社】

[ ひむろじんじゃ ]

 

今回は、奈良県天理市の市街から東方に少し入った大和高原、つまり旧都祁(ツゲ)郷の氷室神社を中心に、別日に訪れた奈良公園の氷室神社と併せて取り上げます。のどかな風景の福住社と超観光地の春日野社という好対照な両社ですが、やはり福住社での大木群による社叢の自然の迫力にはひととき暑さを忘れました。また、わが大阪の高槻市にも「氷室」「闘鶏(ツゲ)」地名がありますので、そちらも少し触れたいと思います。

 

【福住社】入口鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

現在、神社の掲示板に掲げられているご祭神は、闘鶏稲置大山主命、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、額田大中彦命、気吹戸主神、神屋盾比売命、大己貴神、水神大神の七柱ですが、「日本書紀」仁徳天皇六十二年条にみえる「氷室」の初見となる下記の話に登場する始めの三柱が主要な神様とみられます。

つまり、額田大中彦命がツゲ(当地)に猟に出かけた時に、何やら廬の形のものを見つけました。そこで、闘鶏稲置大山主をよんで問うと、『氷室です』と言います。皇子がさらに、『その蔵(おさ)めたようすはどんなか、また何に使うのか』と問うと、『土を掘ること一丈あまり、萱を以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りその上に置きます。夏を越しても消えません。暑い時に水酒にひたしてつかいます』とのこと。皇子がその氷を御所に奉られると、仁徳天皇は喜んで、以降、師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷をくばったと云うことです。

 

【福住社】参道はこんもりうす暗いです

【福住社】境内

 

「日本の神々 大和」で大矢良哲氏は、この闘鶏(都祁・都介)氷室の守護神をまつったのが当社だと説明されます。延喜の制では、式内社とは別に、氷室の風神九所(山城国五所、大和国一所、河内国一所、近江国一所、丹波国一所)の一つに数えられて朝廷から崇敬されていたのです。ただし、創祀の由来は明らかではありません。

 

【福住社】巨木群をバックにした拝殿

 

【祭祀関連氏族】

上記の氷室発見説話に登場する闘鶏氏は、允恭天皇二年条に、幼少期の忍坂大中姫への非礼を咎められる話にも登場し、当社鎮座地から南東方向に5キロ弱にある三陵墓古墳群(5世紀前半~後半)の築造氏族と推定されていますが、「日本古代氏族辞典」には項目がなく、実像に関する情報は少ないようです。「元要記」に、允恭天皇三年に三田宿禰が詔により社殿を創建し氷室の霊を祭ったと書かれるようですが、「氏族辞典」の三田氏の項には、首姓の任那系渡来系の三田首氏などしかみえず、当社鎮座地の闘鶏氏と関係なさそうです。

 

【福住社】本殿。千鳥破風付流造

 

【中世以降歴史】

中世には福住七郷の鎮守となり、福住氏が神主として奉仕していました。この福住氏は天文年間(1532~1555年)の宗職のとき、福住の東北隅に氷室城を構えるほど栄えていました。宗職は、筒井氏の家老などを務め、福住筒井とも呼ばれましたが、鎮守奉斎が滞ってきたため別の神主を雇い、1559年には嫡子宗永に神主職を譲渡し隠居しました。近世初頭になるとその福住氏も衰え、その祭祀は郷民の手に移ったようです。

 

【福住社】本殿

 

【都介氷室跡】

神社背後の室山東麓、福住中学校の体育館の裏くらいの位置にある、二個の縦穴が昔の氷室跡だとされています。標高約490m、氷室の長径は約10m、短径が約8mの楕円形で、深さが約2.5mの摺鉢状です。周囲は樹木に覆われて日光を遮るようになっているそうです。大きな遺跡名の看板が中学校のグラウンドの東側に立っています。

 

【福住社】境内社。左が三柱神社で右が二柱神社

 

【主水司に属した律令期の氷室】

律令制では、当地のような氷室は宮内省の主水(モイトリ)司の所管に属して、その長官すなわち主水正は、供御の水、粥や氷室のことを司っていて、官位は従六位の上階でした。氷室は、氷を凍らせるのに適当な山間幽谷の地で清潔な水の湧出するところに置かれ、そこに何カ所かの池(氷池)を造り、寒中、水を凍結して氷を製造しました。延喜主水式には古代の氷に関する規定が以下のように記されます。

 

【福住社】厳島神社、事比羅神社、金比羅神社

 

朝廷供御の氷室は、山城国に六ケ所(葛野郡徳岡、愛宕郡小野・来栖野・土坂・賢木原・石前)、大和国・河内国・近江国・丹波国にそれぞれ一カ所(山辺郡都介・讃良郡讃良・志賀郡竜花・桑田郡池辺)、合計十カ所に二十一の氷室がありました。そのうち『大和国山辺郡都介一所 六丁輸一駄』と見えるのが「闘鶏氷室」になります。さらに「延喜式」によれば、氷池は上記五か国に540カ所あり、うち30カ所が大和国にありました。なお、当社境内の池も茅荻(チススキ)池と呼ばれていて、氷池跡だとされています。

 

【福住社】都祁氷室跡の表示

 

清少納言は「枕草子」のなかで、『削り氷にあまづら入れて、あたらしき金鋺(かなまり。金属製わん)に入れたる』を『あてなるもの(上品なもの)』の一つだと書ています。「あまづら」は「甘葛」という葛(つる)葦を煎じた甘味料のことで、削り氷は今日の氷水になります。氷の用途は、飲食用のほかは、死者の遺骸の保存にも重要な役割を果たしました。天皇家では「殯(モガリ)」と称して死者を数か月から一年以上も保存することがありましたが、その際の必需品だったのです。

 

【春日野社】入口鳥居。観光客が多いです

 

【奈良市春日野の氷室神社】

奈良公園内の奈良市春日野にも氷室神社があり、こちらは闘鶏稲置大山主命、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、額田大中彦命の三柱が祀られています。「元要記」や社伝によると、平城遷都に伴って氷室を春日の三笠山(若草山)麓の吉城川上に作り、710年7月22日に氷室明神を三笠山の下津岩根宮に祀ったとされます。この氷室を高橋氷室と称したことから、「大和志料」などから「延喜式」神名帳の高橋神社とみる説が出ています。

「元要記」によると、860年に瑞相によって三所の宮柱を鎮座し、1217年に宮柱を造営、現在地へ遷座したとのことです。「大乗院寺社雑事記」1471年の条には、大鳥居と東西一町の瑞垣を新造したと記されます。現在の表門・東西廊は、修理棟札から1642年に造営したことが分かります。本殿は文久年間(1861~64年)に造替されたものです。

 

【春日野社】四脚門

【春日野社】門をくぐるとすぐ拝所です

 

吉城川の氷室は、756年の東大寺山堺四至図(正倉院蔵)では付近に「氷池」「神地」が記され、「興福寺流記」所収の「天平記」では、興福寺の寺域東限が氷室の西垣にあたるとされています。「奈良坊目拙解」(1735年)には、氷室の旧跡は若草山と春日大社の間を流れる水谷川の「月日の磐」あたりだと書かれていますが、現在も川中に日月を彫った岩が残っていると、大矢氏は「日本の神々」に書かれていました。

 

【春日野社】社殿

 

【高槻市の「氷室」「闘鶏」地名】

ここで話は変わりますが、わが大阪の高槻市にも「闘鶏野神社」「闘鶏山古墳」そして「氷室」地名が存在します。「日本歴史地名大系 大阪府」は、一説に上記「書紀」氷室所伝の「闘鶏」を、福住の氷室社周辺の「闘鶏」に比定する説があるが、高槻市の同地名から高槻市に比定するのが有力だと説明しています。しかし、闘鶏氏が高槻市(摂津国島上郡)に居住したという話は聞かれないように思いますし、福住の氷室社鎮座地に比定する考え方の方が有名でしょう。

 

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ところで、大阪市の坐摩神社について、旧鎮座地(行宮のある辺り、「難波津」推定地)の旧地名やその祭祀氏族名が都下(後に渡辺)だとされ、その地名・都下(闘鶏・都祁)野(ツゲノ・トガノ)は朝鮮半島東岸の「迎日県又の名ツゲ野」に由来するとの説があります(「三国遺事」)。ただし、奈良の闘鶏氏とは別氏とされ、なぜ同じ氏名なのかはわかりません。「書紀」欽明天皇二十三年に、摂津国三島郡埴廬(高槻市土室町と推定。氷室町に隣接)に住む新羅人の先祖が来日した所伝がみえることから、高槻のツゲは(来日した際に最初に着いただろう)難波津のツゲノに関係してそうな感じが、個人的にはします。

 

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【春日野社】本殿。三間の流造

一方の「氷室」については、高槻市内の式内社・三島鴨神社(論社二社)の存在や、「新撰姓氏録」摂津国神別で鴨氏が見ること、さらに字名に「鴨林」が存在したことより、かつて高槻市に鴨氏が居住したとみる考えがあります。そして、京都の鴨県主氏が主殿(トノモリ)という職掌を持ち、上賀茂神社周囲に存在した氷室の氷を宮廷に貢じる役割も受け持っていたことが注目されます。一方で、上記のように「延喜式」では、主水司という違う職掌が氷室を管理していて、さらに「延喜式」の摂津国には氷室は見られないものの、氷を扱うという同じ業務内容を鴨県主が行っていることに注目して、高槻市の氷室地名に鴨氏の存在を重ねる推測も存在するようです(「式内社調査報告」)。

 

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【春日野社】氷みくじを載せる氷。四脚門内に有ります

 

(参考文献:氷室神社掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「角川日本地名大辞典」、「日本歴史地名大系」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)

 

長柄神社(奈良県御所市名柄) 葛城鴨氏と葛城長江襲津彦のつながりを偲ばせる姫の宮

[ ながらじんじゃ ]

 

葛城には古代からの有力神社が多くあり、以前にも訪れたことがありますが、今回は南河内方面から、葛城山と金剛山の間の水越峠を通って入りました。のどかな田舎道を走るのですが、大きなトラックも走るくらいのそれなりに幅のある道です。水越トンネルを過ぎて急激に山麓を下っていくと、まもなく当社に鎮座地にたどり着きました。

 

境内入口

 

【ご祭神・ご由緒】

境内の掲示に記される現在のご祭神は、下照姫命。高鴨神社の主祭神である味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)神の妹神で、出雲の国譲り説話の中で返り矢で命を落とした天稚彦命の妻ともされます。当社創祀の年代は明らかではありませんが、「日本書紀」天武天皇九(680)年九月九日条に『朝妻においでになった。大山位以下の者の馬を長柄杜でご覧になり、そこで騎射を行わせた』の「長柄杜」が当社だと考えられています。

 

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「日本の神々 大和」で木村芳一氏は、祭神の異説として高照姫も挙げておられます。こちらは近くの鴨都波神社、一言主神社などで祭られる事代主神の妹神です。他の説としては、「神社覈録」は『祭神長柄首祖歟』と記し、「特選神名牒」も、『注進状に祭神不詳とあり、土人は姫の宮と云い、一説には下照姫ともあれど、姓氏録に長柄首天乃八重事代主神之後也とみえ、又長柄村にます一言主神社即事代主神同神なれば、此社の祭神は長柄首ノ祖八重事代主神ならんとぞ思わる』と記しています。

 

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木村氏は、諸説あって判然としないが、「新撰姓氏録」大和国神別の長柄首が祖神を祀ったのに始まり、後世、鎮座地や社格などから、一言主神社あるいは高鴨神社の姫宮と考えられるようになったのではなかろうか、とまとめておられました。

 

社殿

 

【鎮座地「長柄」】

境内掲示では、『長柄の地名は長江(ナガエ)が長柄(ナガエ)になり音読して長柄(ナガラ)になった。長江はゆるやかに長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状地に残った古語であるともいわれる』との地元の伝えを記しています。

「日本書紀」神武即位前紀己未年辛亥条にみえる『臍見(ホソミ)長柄丘岬』は当地にあたるとされ、「古事記」孝元天皇段にみえる『葛城長江曾都毘古は玉手臣、的臣らの祖』とある葛城長江を葛城の長柄とする説もあります。木村氏は、これらの正否はともかく、当社の西隣にある龍正寺の優れた仏像や、近くの中村邸(重要文化財)などから、長柄が中・近世を通じても葛城東麓の要衝として繁栄したことがわかる、と書かれています。

 

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なお、大阪市平野区長江に鎮座する志紀長𠮷神社の記事では、「長江」は志紀長𠮷社鎮座地「長吉」のことであり、「古事記」執筆時には、葛城襲津彦がこの長吉の地にゆかりがあったと思われていたかもしれない、との説を紹介しました。志紀長江社自身も、「長江」とは住吉の墨江・大和川を意味し、襲津彦は本拠の葛城の地から大和川に沿って大阪平野に進出したとの地域信仰を語っています。長「江」なのだから、川の事だとする大阪説が理解しやすいですが・・・

 

拝殿。燈篭には「長柄神社」と刻まれます

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

「日本古代氏族辞典」の長柄氏の項でも、当社の鎮座地を本拠とし、この神社を奉斎した氏族だと説明されています。姓は首です。上記した通り、「新撰姓氏録」大和国神別に『長柄首。天乃八重事代主神之後也』と見えますが、一族の氏人名は未詳です。同じく上記した神武紀の記載からは、この氏族が天武朝の改姓以前からのものであったことをうかがわせる、とも「氏族辞典」は書いています。

 

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「和州五郡神社神名帳大略注解」には、雲梯神社(現河俣神社)条に『神名帳云、大和国高市郡高市御県坐鴨事代主神社、在雲梯村神森』、『社家者長柄首』と、長柄氏は河俣神社の社家でもあったとあるようです。また別の話として、奈良県天理市長柄町にある白堤神社を奉斎した白堤氏にも同じ事代主神を祖神とする考えがあり、繋がりがあるとする見方も存在します(白堤氏については、忌部氏系とする説もあり)。

 

室町時代の本殿。春日造

 

【弥生時代の発掘遺跡】

当社の西方約400mの地点に、銅鐸と多紐細文鏡が出土した長柄遺跡があります。大正7年の工事中に水田下から発見されました。銅鐸はやや小型、外縁付紐式に分類される、だいたい紀元前4~前2世紀くらいの弥生時代前~中期のものです。一面に流水文を、他の面には斜格子文の横帯三条が鋳出されています。鏡の方は直径15.5センチで、鏡面の中心をはずれて紐が二つあり、細密な線で鋸歯文が描かれた、双紐鋸歯文鏡と呼ばれるものです。鏡は北方大陸系の紀元前4~前1世紀の鏡で、朝鮮半島から舶載されたと推定されていますが、福岡市の飯盛遺跡ものも含めて発見例が現時点全国で11例のみのとても珍しいものです。

 

本殿の庇の裏側「八方睨みの龍」。右側中央に頭が描かれます。なので、垂木がありません

 

【社殿・境内】

本殿は一間の春日造。掲示説明によると、十八枚の棟札も保存されていて、最古は正和元(1312)年の物があるようです。建築様式から見た建築年代は。嘉吉・長亨頃(室町時代中期)と推定されます。向拝に垂木がない珍しい造りで、その庇の裏板に雲龍の絵が描かれているのが見もので、どこから見ても睨まれているように見える「八方睨みの龍」です。さらに、境内入口の燈篭は、この地域出身の元官僚で有名作家の堺屋太一さんが奉納されたものです。

 

堺屋太一さん献納の石燈籠

 

【葛城鴨氏と葛城氏】

長柄首はその祖神伝承から、大国主命(その子が事代主命)後裔の葛城鴨氏とつながりが強い豪族だと理解してよいと思いますが、鴨系神社の分布するこの葛城地域と、古墳時代中期の中央豪族・葛城氏の拠点がほぼ重なります。そして、この地域で葛城氏の活躍の端緒となるのが、当社の東方1.5キロの所にある巨大前方後円墳・宮山古墳(5世紀前半、墳丘長238m、葛城襲津彦の墓とする説有り)です。古墳時代中期らしい長持形石棺や革綴短甲片と、前期を思わせる三角縁神獣鏡片が一緒に出土しています。

 

境内社と社叢

 

この宮山古墳以降とそれ以前の古墳時代前期では、この地域の古墳の規模に大きな差が有ります。前期古墳として確認されている古墳としては、直径50mの寺口和田古墳(4世紀後半・円墳)や一辺20mの鴨都波1号墳(4世紀中頃・方墳)くらいの規模になるのです。このことから、もともとこの地を治めていたのが鴨氏(鴨君)で、4世紀末のヤマト王権の内乱の時期(大和・柳本古墳群から、佐紀古墳群及び百舌鳥・古市古墳群へ勢力が移動する時期)に宮山古墳を築いた集団へ首長権が交代しただろうとする説がある事を、水谷千秋氏が「日本の古代豪族100」で紹介されています。つまり、鴨氏は古墳時代前期およびそれ以前からこの地に居住したと推定されているのです。鴨都波1号墳は小さいといえども、4面の三角縁神獣鏡や早い時期の革綴短甲が出土していて、副葬品には目を見張るとされていることも注目です。

 

境内は子供向けの公園にもなっています

 

三輪氏とともに、鴨氏の姓が「君」であることから、かつてはヤマト王権の大王家またはそれに準ずる権威をもっていた豪族との推測があります。崇神天皇以下三代を南大和に勢力を張った「三輪の大王家」と見る考えです(岡田精司氏)。とても魅力的な説ですが、この葛城南部に古墳時代の始まりとなる大古墳群である大和・柳本古墳群との関係を忍ばせるような、首長墓クラスの前期前方後円墳が存在しない事と符合しないように感じます。葛城鴨氏の謎は深いです。

 

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神社近くからの葛城山

 

(参考文献:長柄神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)