摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など、古代からの要衝である高槻市から史跡を巡って、諸説や伝承など多角的で多くの情報を取り上げたいと思っています

山辺御県坐神社(奈良県天理市西井戸堂町) 「先代旧事本紀」の系譜にみえるご祭神と尾張氏に関する伝承

[ やまのべのみあがたにますじんじゃ ]

 

山邊御縣坐神社は式内論社が二社ありますが、当社はその一つです。西井戸町の集落の中、中ツ道沿いに東面して鎮座しています。布留川と初瀬川の合流近くで、「和名抄」の山辺郡長屋郷の中と推定されると、「日本の神々 大和」で小田基彦氏が書かれています。コインパーキングを使いましたが、少し距離が有ったので、しばし中ツ道を歩いて大和盆地の雰囲気を味わいました。

 

境内

 

【ご祭神・ご由緒】

現在、当社の掲示板で明記されているご祭神は、建麻利根(タケマリネ)命。

「延喜式」式内社としての山辺御県坐神社の祭神については、「神社明細帳」「神名帳考証」(伴信友・渡会延経)が、「先代旧事本紀」天孫本紀に山辺県主の祖と見える建麻利尼命とし、「特選神名牒」が「延喜式」祈年祭の祝詞から推測して豊宇気比売とし、「大和志料」「山辺郡誌」は山辺御県神だとしています。

西井戸堂の当社に関しては、「神社覈録」は祭神不詳としていますが、江戸時代に白山大権現と称していた事が、1607年の棟札や、石燈篭でわかるようです。また、「布留社古文書」にも『白山大権現両井戸堂村』と見えています。

 

拝殿

 

【大和の六御県】

大和の御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位、すなわち大王の直轄地のことだと言われています。「日本書紀」大化元年(645年)八月条に『其れ倭国の六県に遣さるる使者。戸籍を造り、幷て国畝を校ふべし』と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されていました。

 

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高市郡 高市御県神社(名神大、月次新嘗) 

・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗)

十市郡 十市御県坐神社(大、月次新嘗)

城上郡 志貴御県坐神社(大、月次新嘗)

・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)☚当社

添下郡 添御県坐神社(大、月次新嘗)

 

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【式内社に至るまでの記録と式内論社】

730年の「大倭国正税帳」に『山辺御県神戸』と見え、既にそうそうたる古社群の一つとしてその名が記され、稲の累積貯蔵量と租稲量が記録されています。「新抄格勅符抄」の806年の牒に神封二二戸とあります。さらに「三代実録」859年の条に、当時267社が神階を進められた中に、当社も従五位下から従五位上に進み、「延喜式」神名帳にも大社として登載されました。

しかし、その後の記録が無くなり、所在も不明になってしまい、現在は天理市別所町と同市西井戸堂町の二社が伝承地として、それぞれ式内論社とされています。具体的には、「大和志料」「山辺郡誌」が別所の社を推し、一方、「大和志」「大和名所図会」「神社覈録」などが西井戸堂の当社を支持しています。

 

社殿

 

以下、西井戸堂町の当社の事を記します。

 

【藤原道長の宿泊した「井外堂」と十一面観音立像】

「御堂関白記」に、藤原道長が金峰山詣でのために、1007年8月2日に京都を発ち、3日に大安寺、4日に井外堂、5日に軽寺に宿泊したと記されているのですが、『井外堂』が「井戸堂」のことだと、先の小田氏は述べておられます。つまり道長は中ツ道を通ったと推定され、井戸堂には当時著名な寺社があったと思われるとのことです。

上記した「布留社古文書」の方には、『中社氏神白山大権現一社、弁財天一社、拝殿一ケ所、観音堂一カ所両井戸堂立合、但十一面観音脇立二体、釣鐘堂一カ所、行者堂一カ所』とあります。この中の観音堂はもと長谷寺小池坊の末寺で植福山妙観音と号されていましたが、明治5年に廃寺となりました。しかし、観音堂の建物は残り、本尊十一面観音立像が厨子に安置されて、重要文化財の指定を受けています。この観音堂の下に井戸があるとされているのです。

十一面観音立像は、藤原時代(美術史上の時代区分のひとつ。遣唐使廃止以後、藤原氏が摂関政治を行った平安時代中期・後期をさす)の作といわれ、胎内には長さ210センチの一部焼損した木芯が納められています。白山権現が十一面観音の垂迹とされていて、本尊の製作年代からして、かなり古い時代に白山権現が勧請されたと想像され、道長の訪問の時には既に両社寺が並び立っていたと思われると、先の小田氏は書かれています。

 

本殿

 

【鎮座地地名と山辺御井】

当社を中心にして、西井戸堂町と東井戸堂町に小字「アカタ」、吉田町に「ミクリ」、合場町に「北田部」「南田部」、富堂に「屯倉」の小字が(80年代に)現存し、町名にも「田」「田井庄」「田部」などがありました。小田氏は、これらの地名が一円に存在することは、この一帯に山辺御県が存在したことを物語っているのであろう、と書かれています。

「井戸堂」の地名の起源となったとされるのは、上記した観音堂下の井戸ですが、境内地付近(隣接する西井戸堂町公民館前)や周辺に山辺御井の伝承を持つ井戸があることも、当社が古社であることを忍ばせます。

 

境内の石燈籠。右下の垣の外が山辺御井

 

【祭祀関連氏族】

「山辺」だけだと、「新撰姓氏録」右京皇別下に、『山辺公。和気朝臣同祖』、摂津国皇別に『山辺公。和気朝臣同祖。大鐸石和居命(鐸石別命)之後也』という、垂仁天皇の後裔氏族がいますが、ここは「山辺県主」ということなので、やはり現在もご祭神として祀られる建麻利根(尼)命に注目したくなります。

「先代旧事本紀」天孫本紀の天火明命(「旧事本紀」は、物部氏の祖神饒速日命と同一神であるかのような表現で「火明饒速日命」と表記します)に続く天香語山命から5世後に建麻利尼命が見え、これを石作連、桑内連、山辺県主等祖だと記します。兄弟には建田背(神服連・海部直等々の祖)、建多乎利(笛吹連等々の祖)がいるとされ、つまりは地方の大豪族・尾張氏系統に属する氏族となります。

 

観音堂。この中に井戸と十一面観音立像があるとのこと

 

【尾張氏と大和】

尾張氏については、海部氏がその別姓との伝承(熱田神宮縁起)がありますが、出自について大和葛城を発祥の地とするのか、地元尾張(愛知県)で自生した氏族なのかで議論が絶えないようです。特に後者では、愛知県の断夫山古墳の築造を画期として、6世紀以降に継体大王を支える勢力として大和入りしてきたという説もあります(加藤謙吉氏等)が、これだと記紀に考安天皇の母が尾張連の先祖奥津余曽(「旧事本紀」で『葛木彦』)の妹だとされたり、上記した建麻利尼命の「旧事本紀」上の説明と合わなくなり、悩ましくなります。

水谷千秋氏は「日本の古代豪族100」で、尾張氏の先祖・火明命が瓊瓊杵尊というきわめて尊貴な皇祖神の兄あるいは子とされている点は(伝承とはいえ)尾張氏の無視できない重要性を表わし、姓が「連」であることもきわめて異例で、尾張氏が大和本貫とする説が唱えられる背景にはこうしたこともあるだろう、と書かれています。

 

これまで大和の御県神社を取り上げた際、出雲伝承・口伝(と「海部氏勘注系図」)の主張を前提にしてみて、もしかしたら埋もれてしまったかもしれないそもそもの祭祀氏族を推測してきました。それが以下になります。

  • (氏族)   (一般説)       (伝承の主張)
  • 磯城県主   物部氏系      出雲系(九州勢力に攻められた)
  • 十市県主   磯城県主の後    同上
  • 添県主    中臣氏系      長髄彦(登美彦)→登美氏は出雲出身
  • 高市県主   天津彦根命後裔   ☚の後の天御影命は海部直氏の始祖

 

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山辺県主が尾張氏系であれば、一般的にも海部氏と関係すると理解されますから、以上5つの御県主に関しては、出雲・アマのそもそも日本海出身氏族に繋がりそう、との見え方になります。近年の考古学では、弥生時代後期は、九州とは別個に、出雲から丹後地域での鉄器流通が盛んで大和より活発だと説かれたり、古墳時代初頭期には山陰系土器が奈良盆地南東部の纏向遺跡や城島遺跡に現れると言われます。出雲や丹後の出身者が大和で活発だった時期があったのかもしれないです。

「古代海部氏の系図」で金久与一氏は、尾張氏の解説の最後に、『もとは丹後の海部氏が大和葛城の高尾張邑に移住し「高尾張」氏を名乗り四世紀ごろ尾張(東海地方)へ移動したものといえよう』との言葉で締められていました。文中の根拠説明は不十分ですが、海部氏系図を参照する際に交流した籠神社の海部宮司からの伝えではないかと、個人的には推測しています。

 

鐘楼

 

(参考文献:当社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「先代旧事本紀訓注」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

狭山神社(大阪府大阪狭山市半田) この地の中臣系豪族に偲ばれる鹿島神宮や記紀・狭山池伝承との関わり

[ さやまじんじゃ ]

 

「古事記」垂仁天皇記や「日本書紀」崇神天皇紀にその築造が記される狭山池の程近くに鎮座する、南河内の式内社です。狭山池は近年発掘調査が行われ、その古代にさかのぼる豊かな発掘成果と歴史が大阪府立狭山池博物館で見学することが出来ます。発掘で明らかになったことと記紀の記述を対比すると、古代この地にいた豪族が記紀の記述に影響力を持った可能性が偲ばれました。

 

石標のある所から少し手前の一の鳥居

【ご祭神】

現在のご祭神は、主祭神として天照大神と素戔嗚命。配祇神として、臣狭山命、天児屋根命、大山祇神、稲田姫命、印色入日子命が祀られています。こんなにご祭神が多いのは、明治時代終わりの合祀政策によるものです。「式内社調査報告」で伊勢戸佐一郎氏は、河内国丹比郡の式内社の中で天照大神を主祭神として祀るのはこの狭山神社のみであり、当社の重要性を知ることが出来ると書かれますが、古代の当社の姿を偲ばせるご祭神は、臣狭山命、天児屋根命、そして印色入日子命です。

 

参道

 

かつての考証書が述べるご祭神は、「神社覈録」が『姓氏録和泉国神別 狭山連は大中臣朝臣同祖天児屋根命之後也。考証伝、天児屋根命十七世孫臣狭山命』と書き、「河内国式神私考」は巨狭山命として『中臣氏系図、巨狭山命は中臣連遠祖國摩大鹿島命之児 河内狭山之地主之神也』と中臣氏との関係を明記します。「河内國式内社目録稿本」は「所祭狭山連祖神天児屋根命 俗称天照大神 進乃男神』として中臣系の地域氏族の関りを述べます。

 

一段高い位置の拝殿

 

【ご由緒】

一方、ご由緒としては、「大阪府全志」が『崇神天皇の勅に依りて創建せし所なりという』と述べて、「古事記」垂仁天皇記に近隣する狭山池が印色入日子命によって造営されたとする所伝との関連を思わせますが、当社との直接の関りが書かれているわけではありません。室町時代に当社が牛頭天王社と書された時期の「植田庄牛頭天王社記」が有りますが、そこにも崇神天皇による創建が記され、「日本書紀」に河内の狭山池の所伝があると述べます。

 

本殿は垣の中で見えづらいです

 

同じご由緒を持つ式内社に、現在は当社の境内社となっている狭山堤神社があります。明治40年の合祀によって境内社となりました。元の鎮座地は、明治12年の神社明細帳に依れば、『堺懸管下河内国丹南郡半田村字明神山』とありますが、伊勢戸氏は創建地を定める確証をつかみ得ないと書かれています。

 

境内社・狭山堤神社

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【祭祀氏族・神階・幣帛等】

当社は「倭名類聚抄」の河内国丹比郡狭山郷にあったとみられますが、丹比郡には中臣系氏族として菅生朝臣、中臣酒屋連、村山連、そして中臣高良比連の四氏がいたとみられます。そのうち、菅生朝臣は式内社菅生神社に関り、また中臣酒屋連は同じく式内社の酒屋神社に関わるとみられます。

そして、村山連について加藤謙吉氏は、天平二十年(745年)四月二五日付文書によると、河内国丹比郡狭山郷の住人に村山連浜足と村山連首麻呂が記されています。さらにもう一氏の中臣高良比連は、「新撰姓氏録」河内国神別に『津速魂命十三世孫臣狭山命之後也』と書かれ、「二所太神宮例文」によれば、神亀三年(726年)、伊勢大宮司に任ぜられた高良比連千上と後任の村山連豊家は異父兄弟とあります。加藤氏は、中臣高良比連の本拠地は不明だが、村山連一族と近接するところに居住していた可能性が高いと説明されます。

 

境内社・狭山戎社

 

上記した「河内國式内社目録稿本」が書いた狭山連については、「姓氏録」では和泉国神別に分類され、始祖として挙げるのは天児屋根命です。当社は和泉国との境近くに鎮座するので、狭山連が当社に関わる可能性は有りそうですが、当社が天照大神を祀っている事に重点を置くと、伊勢大宮司を務めたという村山連や中臣高良比連の関りも考えたくなります。

「三代実録」によると、狭山神社と狭山堤神社共に、859年に従五位上の神階を与えられています。「延喜式」神名帳では、二社共に堂々の大社です。

 

境内社・狭山稲荷社

 

【臣狭山命】

「松尾社家系図」には、中臣氏の祖とされる雷大臣(中臣鳥賊都連)からさかのぼる系譜として以下が見えます。これは「尊卑分脈」とも矛盾しないようです。

神聞勝命ー久志宇賀主命ー国摩大鹿島命ー巨(臣)狭山命ー雷大臣命

「常陸国風土記」香島郡条には、『俗曰』として、崇神朝に大坂山の頂に至現した鹿嶋神の神託の意味を天皇に奉答した人物として、大中臣神聞勝命の名を伝え、さらに倭武天皇(日本武尊)の時代に鹿嶋神が臣狭山命に、神の舟を管理して奉仕せよと宣した話がみえます。臣狭山命は、「続日本紀」781年条の栗原勝子公の言上に、伊賀都臣(雷大臣)の父とする意美佐夜麻と同一人物で、こうして奈良時代の公式記録にも登場します。

 

茅葺きの神器庫。今年屋根を修理したそうです

 

加藤氏は、神聞勝命、臣狭山命、大鹿島の三人はいずれも、8世紀の比較的早い段階で、すでに中臣・藤原氏の祖として扱われていたとみて間違いないと考えておられます。天児屋根命から臣狭山命の世代数が各系譜でほぼブレないからです。そしてこの事実が、常陸の鹿嶋社(鹿島神宮)の祭祀と関わる人物が、中央の中臣・藤原氏の祖先系譜において中心的な位置を占めていたことを意味し、中臣氏のウヂの組織内に鹿嶋社と関連する中臣氏が存在した可能性を示唆するとみるのです。つまり、「狭山」が鹿島神宮に関わるというお考えです。加藤氏は、中臣・藤原氏の出身母体が常陸周辺の卜部集団から昇格していった中臣一族だったとの説を取っておられます。

 

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【狭山池】龍神社の鳥居。池の中に祠が鎮座

 

【狭山池】

狭山池は我が国最古のダム式ため池湖とされる人口の池です。近年の発掘成果により堰き止める堤体の断面構造が明らかになり、最も下層の築造時の層は7世紀前半(616年前後)に造られたことが分かりました。堤の中に水を通すための飛鳥時代当時の樋管が出土し、年輪年代法でその管の年代が確定したのです。

 

【狭山池】龍神社の祠。祠の後ろの山が金剛山。その左の山が葛城山

 

築造後、731年に奈良時代の高僧行基が改修したという層も調査で確認されています。さらに「続日本紀」によると762年に決壊したので修造した記事が見えますが、その時に元の倍程度の高さまで大規模な盛土をしていたことも分かっています。これらは大阪府立狭山池博物館内の巨大な堤断面の移築展示(剥ぎ取りではない)で直に見ることができます。

 

’【狭山池】左側岸が池の堤防。その向こうに覗くのが狭山池博物館。二上山も見えます

 

【所感】

現在、狭山池の発掘成果によって築造時期が明らかになったことを踏まえると、記紀の崇神・垂仁紀の狭山池築造の所伝が潤色だった事が考古学的に明確になったと言わざるを得ません。そして、飛鳥時代の築造から100年も経っていないのに、さらに200年程度古い話(「書紀」の年代そのままだと500年以上!)にしてしまうとは、大胆な事をしたものだという感想になります。

 

境内

 

「書紀」の垂仁紀に天皇に従う五大夫の一人として、『中臣連の遠祖大鹿嶋』が登場します。この五大夫について、篠川賢氏は和同元年(708年)に任命された議政官の氏族構成と同じ(石上麻呂、藤原不比等、大伴安麻呂、小野(旧和爾)毛野、阿倍宿奈麻呂、中臣意美麻呂)なので、「書紀」のその記事は708年以降に作成されたことは間違いないと断定されます。確かに、少なくとも崇神・垂仁帝が想定される時代には「中臣」は存在しないはず(「新撰氏族本系帳」)です。となると、記紀両方に見える狭山池の記述も、常陸国に起源をもつこの地の中臣氏が働きかけて作成されたのでは、と思いたくなります。

ヤマトの王権~律令国家内で臣狭山命が中臣・藤原氏の系図に組み込まれたのが8世紀に入ってからとすると、当社のご祭神となるのはそれ以降であり、さらに印色入日子命のご由緒が語られるのはさらにもっと後の事だったのではないかと思えます。

 

社殿と社叢

 

(参考文献:狭山池博物館公式HP、篠川賢「物部氏」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 河内」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

若江鏡神社(大阪府東大阪市若江南町) 河内の式内社が「鏡」を名乗る謎と奈良県鏡作神社の伝承

[ わかえかがみじんじゃ ]

 

古代史や考古学において、「鏡」に関する謎やロマンは尽きることがありませんが、その「鏡」の名を持つ神社が大阪の東大阪市にあるということで、参拝させていただきました。明確な名前の割には祭祀氏族像が混迷していて謎だらけなようですが、そういう中で奈良県田原本町の鏡作社の伝承が思い出されました。

 

参道。立派な社叢

 

【ご祭神】

現在のご祭神は、大伊迦槌火明大神(大雷大神)、仲哀天皇、神功皇后の三柱です。当社は大雷大神について、『大雷(荒魂)と、火明命を尊んで称したもの』と説明されます。ただ、当社祭神については江戸時代から学者の議論があり、諸説存在します。

それらを挙げますと、渡会氏の「神名帳考証」では若彦靈命・大己貴命、「神社覈録」は不詳、「大日本神祇志」と「特選神名牒」は美濃国各務(カガミ)郡の神社と関連させて火明命と推定します。「大阪府志」「大阪府全志」は現在の三柱とし、「大阪府史蹟名勝天然記念物」は大伊迦槌神としています。この中で、明治時代以降の大阪府の地誌類の研究では雷神の大伊迦槌神を主神とする傾向があるものの、このように諸説が十分に一致しないのは、この神社を斎祭る氏族がはっきりしないことが原因だと、「式内社調査報告」で棚橋利光氏が書かれています。

 

境内

 

【祭祀関連氏族の諸説】

「調査報告」で棚橋氏は、祭祀氏族の検討として、まず「若江」を氏族名とみます。若江氏は百済から渡来した張氏の後裔氏族です。「日本古代氏族辞典」では若江郡の地名にもとづくとしていますが、「新撰姓氏録」では右京諸蕃に載る『若江造。出自後漢霊帝苗裔奈張安力也』です。棚橋氏は、同書の河内国の部分には見えず、古代の河内関係の文献にも若江氏が見えないことに留意され、一方、この地域で有力とされる氏族としては美努氏が知られることもあり、社名の「若江」は氏族でなく地名であると考えます。

 

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拝殿

 

「若江」が地名だとすると、「鏡」に注目することになります。この場合、美濃国各務(カガミ)郡各務郷を本拠とした各務(各牟)氏が浮かび上がります。渡来系氏族と考えられていて、壬申の乱を契機に有力化し、「三代実録」の866年には大領である各務吉男の名が見えます。棚橋氏によれば、「各務」が「鏡」に通じ、大和国の鏡作坐天照御魂神社に関わる鏡作氏との縁故があるとのことです。そして、「神宮雑例集」(鎌倉時代に、上代からの伊勢神宮の由緒・経営・行事などについて、朝廷の記録文書にもとづいて編述したもの)所引の「神宮記」に、天火明命の子の天香語山命が鏡作の遠祖だと書かれていることから、大和の鏡作社と同様に若江鏡社も天火明命を祀るという説に繋がるのです。しかし、鏡作氏が若江の地に居たとする根拠はどこにもないので、この説にもどれほど確実性があるかわからない、と棚橋氏は考えます。

 

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本殿。独特な三間社流造

 

補足として、棚橋氏は触れておられませんが、鏡作を名乗る氏族には、物部氏系も文献に見えます。つまり、「先代旧事本紀」天孫本紀に物部鍛冶師連公(清寧天皇の大連・目と兄弟)が鏡作小軽馬(女)連の祖だとするものです。上記した鏡作坐天照御魂神社の近隣には、物部氏系の穂積氏や阿刀氏が居住したとする指摘もあります。しかし、棚橋氏の検討では考慮されていませんでした。

 

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殿内は厳かです

 

【古代の神階記事】

「文徳実録」854年に『河内国大雷火明神従五位下』とある「大雷火明神」が当社若江鏡社のことなのかどうかに関しても論が分かれます。当社と見る説では、本殿前の雷神石(雷手形石)の伝承があることや、上記の「神宮雑例集」の始祖伝承に関連づけて考えられます。「特選神名牒」「大阪府全志」がこの説です。一方、神階記事にあるのは式外の別社だとみる向きもあり、「神社覈録」「大日本神祇志」「大阪府志」がこちらに説を取っています。

 

天照皇大神社

 

【祭神祭祀の経緯】

棚橋氏はさらに、地元での祭祀の経緯を検討します。そして、三柱の中で大伊迦槌神が取り上げられるようになったのが、「大阪府志」以降の事であり、地元でこの神を祀りだしたのは新しいとみます。それに対して、仲哀天皇と神功皇后の方が地元で古くから祀られていた祭神と言えるようです。明治7年の「河泉神社記」にも『所祭未詳、俗称足仲彦天皇、息長足皇后』と書かれ、明治の初めに二柱が祀られていたことが分かります。

 

塚本稲荷社

 

それでは、それ以前はどうかとなると、文書などの史料がないので判断できないようです。ただ、江戸末期再建の現在の神社本殿が、三間社流造とはいうものの、構造上は一間流造を連結したものであり、中の間は4面が壁になっていてご神体が祀られていない事から、そもそもは二柱だったと分かります。

実は、平安時代にこの地域には石清水八幡宮の若江荘が在り、鎌倉時代にもこの荘が存続していたと考えられています。なので、このころからこの二柱の八幡神が祀られたのではないかと考えられるようです。棚橋氏は、この仲哀天皇と神功皇后が古代から祀られていたとは考えられないが、中世のある時期からこの二柱が祀られてきたのではないかと思う、とまとめられていました。

 

熊野権現社

 

【社殿、境内】

本殿は、1828年の再建で、上記したように一間流造を連結した三間社流造です。中の間は4面壁で中に入れませんし階段も設けられていません。ただ、寸法上は中の間は両脇の間より広くなっていて、あたかも主神を祀るような形になっています。

本殿の横に鏡塚と呼ばれる場所がありますが、古墳だそうです。「式内社調査報告」では、森をなしていて地元の人は雷の森と云ってたと書かれていますが、現在は森にはなってませんでした。

 

八雲歓喜天社

 

【鏡作の伝承】

以前紹介しました、奈良県田原本町に鎮座する鏡作麻気神社の田原本町観光協会名義の掲示説明に、以下のように書かれていました。

『現在、大阪府の東大阪を中心とした小阪、今里、八尾では金属加工業が多いが、この金属加工の人々の先祖は、大和の田原本町付近だと伝えられ、田原本町にこれら小阪、今里、八尾の地名が共通する事と関係するかもしれない』

まず「八尾」は八尾市であり(田原本町の八尾はヤツオ)、当社の東大阪市若江南町の南側に境界を接しています。そして、東大阪市内に「小阪」を持つ町名がいくつかあり、若江南町のすぐ西側に集まっています。また、「今里」は現在では大阪市内の地名になりますが、東大阪市内に「今里」の名を持つ会社が複数存在し、中には金型製作の会社も有ります(旧地名のことは未調査・不明です)。

 

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鏡塚

 

【ヤマト王権の生駒山越え】

当社は御野縣主神社から3キロ弱と近く、心合寺山古墳(5世紀前半)もまあまあ近いと言えるでしょう。さらに生駒山を越えて東方向に見ると、平群地区に竹林寺古墳(4世紀後半)、奈良西部に富雄丸山古墳(4世紀後半)、そして宝来山古墳(4世紀中頃~後半)が存在します。これら古墳は、大和から河内に通じる生駒山越えの交通路をヤマト王権が掌握し誇示するために築造された可能性を指摘する声があります。

もし、そういう動きがあったとすれば、その時に大阪平野に移住してきた鏡作に関わる工人が活動拠点に残した祭祀場の痕跡が当社につながったと思いたくなります。4世紀から国内でも本格的に鏡製作が行われますが、銅鐸と違って古墳時代に入ってからの三角縁神獣鏡の鋳型が見つかっていないことは、青銅鏡の分配がヤマト王権の特権事項であったろう事と関係しそうですし、当社の祭祀氏族が本当におぼろげなのも、そのような事情と重なりそうな感じがします。ともかく、古代においてはとても重要な鏡作の現場の聖地だったと思いたいところです。というのも、河内には物部氏と尾張氏(祖神は天火明命)が居ましたので。

 

 

(参考文献:若江鏡神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、「先代旧事本紀訓注」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

国中神社(大阪府四條畷市清滝中町) 朝鮮渡来系の馬飼の地で国常立尊が祀られる不思議

[ くになかじんじゃ/くなかじんじゃ ]

 

現在は四條畷市と奈良県の生駒市をつなぐ幹線道路である国道163号線~旧清滝街道沿いにひっそりと鎮座する式内社・國中神社です。現存する古墳が少ないのですが、この辺りは古墳時代中期に馬の飼育が本格的に始まった地であり、そのあたりとの関連を偲ぶために参拝させていただきました。

 

入口前の様子。左の谷を流れるのが清滝川

 

【ご祭神】

現在の当社掲示によると、国常立尊(クニトコタチノミコト)を筆頭に、1918年に逢坂村の大上宮神社より合祀された天照皇大神と猿田彦大神、1850年頃に境内若宮社から合祀された菅原道真公の四柱が祀られています。このように記される経緯を、「式内社調査報告」「日本の神々 河内」で田村利久氏が書かれています。まず、明治12年の「大阪府神社明細帳」には、国常立尊は記されていませんでした。さらに、天照皇大神と猿田彦大神は合祀された時期が大正6年であり、そうなると元々菅原道真公だけだとなり、「延喜式」式内社の祭神としては難があります。

 

一の鳥居

 

【氏子総代の祭神訂正願】

上記に対して、大正10年に氏子総代の社掌から祭神の誤謬訂正願が理由書を添えて神社本庁に提出されました。その趣旨を以下に記します。

『創立年歴及び由緒は明らかでないが、往古よりこの地に鎮座しており、国常立尊を祀っていた。それ以外に若宮社に菅原道真公を祭祀していたことも古文書伝説から確かである。然るに今日、壱百有余年前に若宮社社殿が破損したことで、菅原道真公を本社相殿へ遷したことにより、祭神に誤謬を生じ、国常立尊なる天神宮を菅公の天満宮と同一視して区別を誤った。また、一面に於いて当社は式内の最も古い神社なので、祭神を明らかに示せば神威を損なうとの浅考から、殊更に祭神不詳等隠蔽したと想像される』

という説明がされています。そして後の「神社本庁明細帳」では、四柱の神が記載されるようになるのです。

 

境内

 

【祭祀関連氏族】

律令時代に入ると、白鳳時代のものとみられる布目・縄目の古瓦を出土した正法寺が当社に接して建立されました。現在は「旧正法寺跡」として遺構地が保存されていますが、この寺は新羅系渡来氏族の宇奴氏の氏寺とされています。この豪族は、「新撰姓氏録」未定雑姓や河内国に『宇奴連。新羅皇子金庭興之後也』とあり、また「日本書紀」欽明紀23年7月にみえる、本国に帰らず日本に留まった『河内国更荒(サララ)郡鸕鷀野邑(ウノノサト)新羅人』との関連が注目されると、「日本古代氏族辞典」に書かれています。

同じく宇奴を名乗る豪族には「姓氏録」河内国諸蕃に『宇奴造。百済国人弥那子富意弥之後也』とみえる宇奴造氏や、「石清水宮放生会事条所引旧記」に宇佐大神を奉請して隼人の征伐を行った宇奴首男人がみえる、同じく百済系の宇奴首氏もいます。

 

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拝殿

 

一方、『更荒(讃良)』の郡名に注目すると、この名を氏名とする豪族としては、百済系の佐良々(サララ)氏がおり、「姓氏録」河内国諸蕃に『佐良々連。出自百済国人久米都彦也』とみえています。さらに、「書紀」天武天皇十二年に連姓を賜った十四氏のうちに婆羅羅馬飼造という豪族がみえますが、その氏は「日本霊異記」に見える更荒郡馬甘里を本拠とした馬飼部の伴造氏族と考えられ、佐良々氏と同族か、と「日本古代氏族辞典」は述べています。

田村氏は、上記した朝鮮半島からの渡来人はこの地の開拓者であり、当社も含めて近隣の式内社のかなりの部分は、そうした渡来系集団と関わるように思われる、とまとめておられました。

 

社殿。2000年に改修

 

【北河内の牧遺跡】

「書紀」応神天皇十五年に、百済王が阿直伎を倭国に派遣し、良馬二頭を献上し飼育させたとする所伝があり、応神朝以降に相当するとみられる5世紀前半に、百済の関与によって倭国で本格的な馬生産が始まると考えられています。

この頃に上町台地北端での難波堀江が開かれますが、同じ時期に蔀屋北遺跡などの河内湖北岸に位置した遺跡群も成立したとみられています。その蔀屋北遺跡や讃良郡条理遺跡を含む北河内の一帯に、馬を飼育するための広大な「牧」が広がっていたと考えられており、当社鎮座地もその領域に含まれるのです。遺跡には百済から持ち込まれた多量の土器や竈を壁際に造りつけた竪穴住居が見つかっていて、百済からの渡来人によって馬の飼育方法が伝えられたことが考古学的にも確認されています。

 

本殿

 

蔀屋北遺跡では馬具の他、馬を埋葬した墓穴が見つかっていて、馬骨の残り方が良好だったことから、全身骨格が完全な形で出土した唯一の事例となっています。それによると当時の日本の馬は体高が124センチの中型馬で、サラブレッドの体高160センチとはだいぶ見かけが異なるようです。同じく牧地域に含まれる忍ケ丘駅前遺跡からはかわいらしい子馬形埴輪も出土しています。

 

三神社・両宮社・吉備社・祇園社・稲荷社が、一つの祠に祭られます

 

【北河内の古墳】

上記の牧が成立する5世紀前半の時期には、この北河内には首長墓と言えるような前方後円墳は築造されなくなります。しかし、古墳時代後期に入る5世紀後半になると、墓の堂古墳(墳丘長70m)を皮切りに数基ほどの前方後円墳が築造されていきます。これらは蔀屋北遺跡から見上げる山麓部(讃良川や清滝川沿い)に立地することから、「淀川流域の古墳時代」で下垣仁志氏は、牧などの手工業生産地と密接に関係するかたちで有力墳が唐突に復活する、と説明されています。

一方、4世紀までの古墳時代前期では、讃良川や清滝川沿いにはほとんど首長墓級の前方後円墳が見られないのですが、ゼロでありません。それが、現在忍陵神社が鎮座する忍岡(忍ケ丘)古墳(4世紀中頃。墳丘長87m)です。また、弥生時代末期後半~古墳時代前期初頭には、忍岡古墳の至近に広がる小路遺跡から前方後方周溝墓や数十基の方形周溝墓が見つかっています。「日本の神々」で田村氏は、『現在は開発されて住宅地となったが、かつては前期古墳もいくつか存在した』と書かれていますが、「淀川流域の古墳時代」で下垣氏が前期古墳・遺跡として挙げられているのは、上記のみです。ただ、渡来人が入ってくる前に先住民が存在したことは確かなのでしょう。

 

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道真公ゆかりの神牛像

 

【大蛇宮】

当社は別名「大蛇宮」とも呼ばれたとのこと。神社の境内地や社前の道を死人などの不浄の通ることが忌諱されていたにも拘らず、近世に大和郡山の藩士が、武士という権限を笠にきて縁者の葬礼の列を通そうとしたところ、社殿に近くから大蛇があらわれ、一行の通行を妨げたことに由来するそうです。実際に何があったのでしょうか?

当社は東高野街道に沿う旧甲可(コウカ)村(百済系の鹿深(カフカ)臣に通じる説もあり)より清滝街道を500メートルほど登ったところに鎮座します。当社の古記録が「天神宮旧記」であることから、近世を通じて「天神」と呼称されていたとみられます。その記録に、1790年に宮廷の高官から懸額寄付を受けていたことが記されていて、宮廷の崇敬が篤かったことが偲ばれます。

 

生駒山系の清滝街道に国道163号線が通ります

 

【国常立尊】

「書紀」では国常立尊、「古事記」では国之常立尊と表記される神は、「古事記」では神世七代の最初に現れる神で、大地が定まったことであり、単独神で身の形を隠していると説明されていますが、その意味については諸説あります。神世七代については、伊耶那岐神・伊耶那美神の誕生を到達点として、それに到る過程を神々の生成によって発展的に表現したものとして捉える解釈が多いそうです。

しかし、当社がなぜ国常立尊に関わるのかの経緯は、上記したことからはよく分かりません。ただ、「天神」とは呼ばれていた記録があり、また、菅原道真公を祀る古社が古くは天神を祀っていたとする例(「天神」繋がりで民間信仰の中で道真公が結び付けられた。天満神社綱敷天満神社等)が他にもあるので、そもそもが天神(として国常立尊が選ばれ)が祀られていたということでしょうか。天神は天津神であり、「天降る」という表現に、大陸・朝鮮半島から渡来する(「海降る」)という解釈を採用すれば、渡来人の活躍した地にふさわしくみえてきます。

一方で国常立尊は、丹波亀岡市の出雲大神宮のご神体山に宿るとされる神とされ、出雲大神宮のしおりでは、富士浅間神社に伝わる「宮下文書」に見える話として、太古に国常立尊が天降り、桑田の宮(出雲の宮)を築いてこの地を統治した後、田羽山(出雲御神体山≒御蔭山と思われる)に葬られました。そして出雲毘女皇らによってその御神体山の麓の祠に祀られたとする等の記述から、出雲大神宮が古来より出雲の大神と崇められていた、という見解が述べられています。こちらを見ると、古墳時代の渡来人が入る前の先住勢力の神?との思いにもなり、悩ましいところです。

 

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当社境内南側から大阪市内を望む

 

(参考文献:国中神社境内掲示、國學院大学「神名データベース」、広瀬和雄・梅本康広編「淀川流域の古墳時代」、狭山池博物館「古代河内湖沿岸の地域開発と水運」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 河内」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町) 天武天皇が篤い信仰を寄せた宇迦之御魂神

[ ひろせたいしゃ ]

 

当社広瀬大社の石標や周囲の社名掲示には「廣瀬神社」とありますが、公式ホームページには「廣瀬大社」となっています。廣瀬社・龍田社となると、兎にも角にも天武天皇が祭られた国家祭祀の神社というイメージですが、ご祭神の説明のされ方に天武天皇の即位前のお名前である「大海人皇子」の命名経緯が重なり、当社のそもそもの姿にいろいろ思いが巡りました。

 

長い参道が続きます

 

【ご祭神・ご由緒】

当社の主神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)、相殿に櫛玉命と穂雷命を祀ります。「延喜式」神名帳に『広瀬坐和加宇加売命神社 名神大』と見えており、神社名で当時のご祭神が分かる稀な神社です。文献上の初出は、「日本書紀」天武天皇四年(675年)の条で、『小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣して、風神を龍田の立野に祀らしむ。小錦中間人連大蓋・大山中曾禰連韓犬を遣して、大忌神を広瀬の河曲に祀らしむ』の所伝。ここでの「大忌神」が「若宇加能売命」に相当します。天武天皇十三年七月四日条には、天武天皇が当社に自ら行幸したとも記されます。

 

参道途中に境内社が鎮座。こちらは日の丸大明神、お稲荷さんです

 

一方、社伝では、崇神天皇9年に、広瀬の河合の里長に信託があり、沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えたといいます。そして、このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになったというものです。「書紀」で崇神9年というと、天皇の夢の中の神人の教えの通り、墨坂の神と大坂の神を祀った話がみえるのみですが、この大坂の神になぞらえたのでしょうか。

 

日吉社

 

【広瀬大忌神の同一神】

「書紀」天武天皇四年の所伝は、龍田の神、広瀬の神を農業守護神として国家的に祀る「風鎮祭」「大忌祭」の初見となると、「日本の神々 大和」に大矢良哲氏が書かれます。この年以降ほぼ毎年広瀬・龍田の祭祀の記事があり(天武八年から龍田・広瀬 → 広瀬・龍田の記載順になる)、天武天皇在位中に19回、持統天皇時代にも16回の遣使奉幣があったと記されます。以降、神祇令にも明記される常例の祭となり、「延喜式」にも四月と七月に大忌祭と風鎮祭が行われる事が載ります。

 

祖霊社

 

その神祇令によると、風神祭(龍田社)が風水の害なきを祈る祭なのに対し、大忌祭は山谷の水が甘水となって水田をうるおし、五穀を稔らせることを祈る祭です。そして、大忌命は、「書紀」一書の六に『吹き撥ふ気、神と為る、号を級長戸辺命と曰ふ。亦は級長津彦命と曰ふ。是風神也。又、飢ませる時、生みませる児倉稲魂(ウカノミタマ)命と号す』とある倉稲魂(宇迦之御魂)命のことと考えられています。倉稲魂命は、稲霊の神格化された神で、後のお稲荷さんの事です。「延喜式」の大殿祭の祝詞にも、『豊宇気姫命は、是れ、稲霊なり。俗に宇賀能美多麻と謂う』とあります。

つまり、平安時代の時点で、若宇加能売命=大忌神=倉稲魂命=豊宇気姫命(豊受大神・伊勢神宮外宮祭神)という関係があったことが、オフィシャルな文献からみえるのです。

 

祓戸社

 

【神階等古代記録】

「延喜式」の臨時祭の記事には、祈雨神祭が見え、その八十五社の中に大倭社・大神社・石上社などと共に広瀬社一座があげられています。「三代実録」878年には、広瀬・龍田両社に神宝を納める倉を一宇ずつ造立したと書かれますが、現存しません。神戸については、「大倭国正税帳」に『広瀬神戸、稲10束、祖10束、合20束』とみえ、「新抄格勅符抄」に『広瀬川合神二戸大和』とあります。神階は、822年に従六位上から従五位下になっています。

 

ようやく二の鳥居

 

【中世以降歴史】

当社には「河相宮縁起」が伝わります。北葛城郡の百済寺の僧学弁が記したものを1522年に書写、江戸時代前期に公文良円が再び書写したものです。最初の書写は1506年の沢蔵軒の兵火によって全社域を焼失した17年後のことで、この事件と当縁起の書写との深い因縁が推測されると、先の大矢氏は書かれます。1719年の「新編広瀬神社記略抄」に焼失前の様子が描かれた古絵図があり、室町時代中期以前の姿が窺えるようです。

 

拝殿。平成にも天皇の幣帛を受けています

 

その後、社殿が復興したのが1546年、公文実仙によってなされました。その後の棟札が八枚残っていて、1627年の棟札の新造以降に二度目の縁起の書写がされたとみられます。現在に残る最古の建物は、1711年造営の春日造の本殿で、この年の正徳元年の棟札も残っています。

なお、縁起には舒明天皇の時代に池辺探則が大明神を拝してから、その子孫が代々神主になったこと等が記されています。

 

拝殿上。ここでも「砂かけ祭 殿上の儀」が行われます

 

【境内・鎮座地周辺】

当社の西に、不毛田川を隔てて定林寺というお寺があります。お寺の宝物には藤原時代の木造十一面観音立像や木造地蔵菩薩立像などがあります。ただし、江戸時代初期は当寺は定林寺でなく神宮寺だったことが、その頃の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」からわかるようです。その図によると、もともとの定林寺は現在地から当南方に描かれていて、一の鳥居の外に定林寺、一の鳥居と二の鳥居の間に神宮寺、その神宮寺の西方には安隆寺が描かれていて、神社を中心とした神仏習合の関係があったとみられます。

 

社殿

 

【砂かけ祭】

当社で「大和の奇祭」などとも云われる特殊神事が、「砂かけ祭(御田植祭)」で、2月11日に行われます。拝殿で行う「殿上の儀」と、拝殿前で行う「庭上の儀」の二部構成で、基本的に同じ作法が二度おこなわれます。とくに「庭上の儀」は、拝殿前に青竹を四本立てて注連縄を張り、その内側を田に見立て、牛役と共に田人が出て模型の鋤で雨粒に見立てた砂をかけ合うと、参詣の群集が手に手に砂をつかんで田人・牛に投げつけ、田人と牛はこれをかわしたり、群集の中に突進したりして暴れまわるのです。そのあと早乙女二人が出て田植えを行って、終了となります。河合町のマスコットキャラクターはこの田人がモチーフになっているようです。

 

拝殿と本殿の間。大社らしく広々と苔むしています

 

【大海人皇子を壬生した凡海宿禰】

天武天皇の即位前の名である大海人皇子は、天皇が崩御した後の殯の儀式で、大(凡)海(オオシアマ)宿禰蒭蒲(アラカマ)が、壬生のこと(養育した幼時のこと)を誄(しのびごと)したことから、凡海にちなんで名づけられたと推測されています。凡海氏は海部を管掌する伴造氏族と考えられていて、穂高見命の後となる安曇氏系と火明命系があるとみられています。いずれにしても、海人族関係と捉えられます。出雲伝承・口伝では、阿曇氏だとか、住吉大社の津守氏が養育したとの話があり一定しませんが、基本は一般説と同じです。

 

本殿。春日造、檜皮葺

 

そんな天武天皇や妻の持統天皇が繰り返し当社(と龍田大社)で祭事をしたり、行幸までしたと「書紀」に記載されるのは、当社に対して、養育してくれた家系への個人的な思い入れが重なったのではないかと感じられます。そして、当社のご祭神は倉稲魂(宇迦之御魂)命や豊受大神と同じとされるのです。「海部」となると、海部直が奉斎した丹後の元伊勢籠神社を見たくなりますが、そこでは奥宮の主神に豊受大神を祀り、伊勢神宮外宮の故地として「元伊勢」を掲げます。現在の籠神社は倉稲魂との関係を明言されていませんが、五穀豊穣の御神徳をもち関連が偲ばれます。そして、出雲伝承では、海部氏は古くは倉稲魂信仰を持っていたと主張するのです。

 

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本殿。河合町無形民俗文化財

 

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こうして眺めると、近隣の糸井神社比売久波神社でも偲ばれた、河内方面から大和に進出して来て天理の大和神社の地で勢力を持ったと想像される海人族⇒大倭直との関係が、そもそもの広瀬大社にもあったのではないかと期待したくなります。つまり、4世紀後半から5世紀始めの頃、河内王朝への王朝交代があったかはともかくとして、倭の五王の勢力の朝鮮半島進出に協力した海人族系が、渡来人を連れて大和に進出し、この大和川が合流する重要地点にも拠点を持った事の名残が、これらの三社として残っただろうとのロマンを持ちます。

 

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境内

(参考文献:廣瀬大社公式HP・境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

高石神社(大阪府高石市高師浜) 越後国との繋がりも説かれるコシ氏が関わる天神の宮

[ たかいしじんじゃ/たかしじんじゃ ]

 

以前、淡路神社の記事で大園遺跡(大複合遺跡で、古墳時代の掘立柱建物群や漁撈具の出土が有名)を取り上げましたが、その遺跡から北、約1キロほどの所にある神社です。南海電車の高師浜駅から近く、神社の北方には大きな浜寺公園も広がりますが、海沿いといってもその先には工業地帯の埋め立て地が広がっているのが現状です。

 

街中にあって広い社叢を誇ります

 

【諸書の語るご祭神・ご由緒】

現在祀られているご祭神は、少彦名命、天照大神、熊野坐三柱とされます。しかし、「和泉國式内社目六稿」では『所祭未詳、俗称少彦名命』と記され、明治12年の神社明細帳では、少彦名命、天照皇大神、伊邪那美命とされています。

さらに、「大阪府史蹟名勝天然記念物」では祭祀氏族にも触れ、『古来祭神明瞭を欠きたるものの如く、(略)皆不詳とせり。今は少彦名命、天照大神、伊邪那美尊を祀るという。当社が古書に王仁を祀るというは、高石連の祖が王仁の後なり、といえる新撰姓氏録に基づきしなり』とあり、「和泉国名所図会」には『延喜式内社にして、高志の祖王仁を祭る、今天神と称す』と、様々な祭神説があり混然としています。

 

参道。松が多い感じです

 

【社伝による説明】

一方、当社の社伝には、祭祀の歳月は確かではないものの、白雉元年とも云われること、「延喜式」神名帳に大鳥郡の小社として載り、堀河天皇の御世寛治年間(1087~1095年)に社殿の再建があり、今は天神と称す(式社考)こと、そして社殿は寛永12年(1635年)にも再建されたものの、昭和9年の室戸台風で被災し、同11年の竣工したことなどが記されています。

白雉元年の創建や寛治年間の再建の記述は興味深いですが、「式内社調査報告」で二宮正彦氏は、これらについては未詳としています。

 

境内

 

【祭祀関連氏族に関する議論】

「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏は、当社は百済系渡来人西文(カワチノフミ)氏の分派が住みついて高志(コシまたは、タカシ)と称し、その祖王仁を氏神として祀ったものであろう、と書かれています。高志は古志とも表記します。

王仁は、記紀共に応神天皇の時期に来日したことが記される書(文)首(フミノオビト)の祖で、漢の高帝を先祖と自称し、王仁の子の強子首から子の河波子首が分かれ、さらに河波子首の後で高志(古志)史が分かれます。高志の氏名はのちの大和国高市郡坂合村越(今の明日香村)の地名に由来するとの考えが「日本古代氏族辞典」に載りますが、「続日本紀」の766年に和泉国の高志比登若子麻呂ら53人が連の姓を賜った記事があり、また「新撰姓氏録」和泉国諸蕃にも『古志連。文宿禰同祖。王仁之後也』とあることから、大和国、河内国の他に和泉国にも居住していたと考えられています。

 

拝殿

 

林氏は、高志連一族はここに集落をつくって高石、高脚、高師の名の起源となったと書きますが、一方で二宮氏は上記の「和泉国名所図会」の説明に対し、高志ー古志ー高石ー高師の人名・地名の称呼を混同したために生じた一説と思われる、と意義を唱えています。さらに二宮氏は当社の起源について、おそらく当初は高石荘の鎮守神として鎮祭され、熊野詣の途次に位置する故を以て「伊邪那美尊」を祀り、「熊野坐三社」を配祀したと考えられていました。なお、有名な奈良時代の僧行基はこの和泉国の高志氏の出身です。

 

社殿。海沿いの浜の感じがします。すぐ向こうは南海線です

 

【地名「高石・高師」と越国が関わるとする一説】

加藤謙吉氏は、「日本霊異記」の行基に関する記述『俗性は越史なり。越後国顎城郡の人なり』について、日本海側の越後国コシ国造勢力の流れをくむ高志公一族に誤って結び付けたとする有力説に対して、異議を唱えておられます。

 

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加藤氏のお考えでは、高志(古志)氏はそもそもは、白猪氏(葛井氏)船氏・津氏らとともに、河内国古市郡古市郷に居住して朝廷の文筆・記録の任にあたった「野中古市人」のフミヒト系集団の一員で、行基が大鳥郡の母の家で生まれた668年には和泉国に拠点を移していたとみるのが無難なようです。そして高志氏の一族の者、おそらくは行基の父がフミヒト的な職務に就くためにコシ国に派遣され、幼少の行基も一定期間居住したことが「霊異記」の記述に繋がったと想定されます。

 

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本殿。入母屋造

 

この時期にフミヒトが地方の派遣されることは他にも多くみられ、その中には赴任した国の名を名乗るようになる氏族が存在(筑紫史、壱岐史)することから、氏名の「高志」も「コシ国」から付けられた蓋然性が高いとされます。さらに、現京都府にあたる「和名抄」綴喜郡多可(タカ)郷の郷名が、その地を本拠地とした高句麗系の高(コウ)史に由来するとの伝承があるとする事例から、コシ・コウシ⇒タカシの転訛が考えられるので、氏族名の高志氏から和泉国大鳥郡の地名「高石・高脚・高師」が生まれたと推測しておられました。コシには「古志」の表記もありますが、「高志」「越」表記の方が一般的とのことです。加藤氏はご自身で不十分な論考との但し書きをされていますが、「高石・高師」が「越」とつながるとは面白い説だと思いました。

 

五社を祀る境内社拝殿

 

【社殿、境内】

上記の通り「式内社調査報告」では、本殿は昭和始めの建築で、間口二間、奥行二間半の入母屋造と記されますが、現状を見るとさらに上に銅板葺の新しい屋根を被せて増築いるかのように見えます。幣殿とつながっていて複雑そうなで構造が分かりにくかったです。

中心となる主神の社殿とは別に、拝殿と本殿が対になる境内社が鎮座します。これは明治40年に合祀された、船富神社(祭神、神功皇后)、八坂神社(同、須佐之男命)、八幡神社(同、誉田別天皇)、春日神社(春日神四柱)彌栄神社(須佐之男命)を一殿に祭ったものです。元々はそれぞれ別棟の境内社で祭られていましたが、第二室戸台風で被災してから今の形に祭られてものです。

境内は、主の社殿の周囲など松が多く植わっていて、昔の海沿いの高師浜の風情をよく残しているとされていますが、大木のほとんどが度重なる風害で倒れていて、本殿周囲の空き地はその後に植樹したもののようです。鎮座地については、「天神前」という字名があることから、創建時より現社地にあったと推定されます。

 

境内社本殿

 

【大園遺跡の古墳時代中期から奈良時代】

当社に近接する大園遺跡の古墳時代中期以降の内容にも、簡単に触れておきたいと思います。その中期には朝鮮半島からの渡来人の存在が窺われる須恵器が多数出土するようになり、「首長居館」と見られる複数の掘立柱建物や、朝鮮半島にみられる建築様式である大壁建物の可能性が高い建築の痕跡もみられます。また、大型の漁撈用土錘(魚網の重り)が多数出土する事も特異なようです。

 

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古墳時代後期になると、100か所以上もの掘立柱建物のグループが検出されるとともに、とびぬけて大量の土垂や飯蛸壷の漁撈具が出土します。これに関わるとみられるのが、「日本書紀」持統天皇三年の、河内国(後の和泉国)高脚海での漁撈が禁じられていた記述です。つまり高石神社西方の高脚海が天皇家の為の禁漁区であった事を示す記事であり、そうなると大園遺跡の内容はその前身、古墳時代後期に大王家への献納漁撈を行っていた地と見ることも可能なようです。

 

高石稲荷大明神

 

奈良時代に入ってからも重要な遺構が確認されています。一つは長さ4m以上、直径1.2mのヒノキの大木をくりぬいた巨大な井戸、二つ目がカニヤ塚古墳(古墳時代中期後半)の周濠底に石を敷き詰めて苑池にした遺構、さらに、糞食昆虫のマルエンマコガネ等の動物遺体が検出されたトイレ遺構などが大園遺跡の範囲内から検出されているのです。これら遺構の内容との関連が推測されているのが、「続日本紀」に記載のある、元正天皇が何度も通ったとされる「和泉宮」「和泉離宮」という施設です。特に「トイレ遺構」が宮都以外で見つかるのは極めて稀なことなようで、以上のことが宮があった推定根拠となっています。

 

境内端にも小さなお稲荷さん

 

【所感】

考古学の成果から見ると、当社周辺に古くから百済からの、かなり重要な渡来人が居住していたと考えるのは自然な事に思えます。ただ、これらが西文氏系のような文筆専門の氏族に繋がるかどうかはわかりません。また、奈良時代までにこの辺りは大王~天皇家の直轄地(茅渟山屯倉)のような地だったことが窺われるので、もしかして王族にかかわる公的な祭祀施設として創祀されたのかも、との感想も持ちます。あまり具体的な祭祀氏族像が文献に語られていないことや、「天神前」という字名からも、そんな印象を持ちます。

 

巨木

(参考文献:高石神社境内掲示、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、大阪府弥生文化博物館「大園。古代王権の地域デザイン」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、久世仁士「百舌鳥古墳群をあるく」新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

比売久波神社(奈良県磯城郡川西町唐院) 隣接する島の山古墳と共に偲ばれる「倭の五王」の時代の始まり

[ ひめくわじんじゃ ]

 

奈良盆地の真ん中くらいの所に、4世紀末にポツリと築造された大前方後円墳・島の山古墳への興味もあって早くに訪れたかったのですが、なかなか当社の存在感についてイメージが出来ないままでした。やはり、近接する糸井神社と一緒に眺めることで、島の山古墳と合わせて古墳時代中期の始まりに、朝鮮渡来人がやってくる時代に関わるロマンが湧いてきたという感じです。

 

島の山古墳を右に見て歩くと境内入口に着きます

 

【ご祭神・ご由緒】

現在のご祭神は、久波御魂命と天八千千姫の二柱とされる、「延喜式」神名帳登載の古社ですが、かつての考証では様々に説明されています。

「磯城郡誌」では、『祭神として延喜式考証に久波御魂命と云々、神名秘書(伴信友)には天八千千姫桑葉を天の香久山に植えて、蚕を飼い絹を織り御衣に供なうとあり、祭神は此姫ならんと、或いは云う、古来葉を以て神體(体)となすと、然らば姫桑にして、糸井社に縁故を有すものならん。二社相距る遠からず』として、結崎の糸井神社と関係があると考えます。「大和國神社神名帳」は祭神不詳として、檜牧村鎮座説と唐院鎮座説の二節があると書きます。「大和志料」も祭神は詳らかでないとしつつ、姫桑を神体とする姫桑で、こちらも糸井神社との縁故有りと見ています。

 

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拝殿

 

【記紀に見えない神々】

「式内社調査報告」で乾健治氏は上記を引用したうえで、久波御魂命が日本の神名として他に見えず、桑の御魂の意味だろうとされます。また天八千千姫(アメノヤチチヒメ)は、天棚機姫命(アメノタナバタヒメ)の別名で、天照大神が天岩屋戸に隠れたとき、高皇産霊神の命により大神に奉るべき神衣を織った神だとする「古史伝」古語拾遺に由った説明をされています。そして、倭文(シトリ)氏がその末裔だとあります。

 

社殿

 

【祭祀関係氏族】

倭文は「シオツリ」「シズリ」とも読み、織物生産の部である倭文部を率いた伴造氏族とみられます。主流の一族の姓は、天武紀の賜姓で連から宿祢になっています。倭文とは綾織りした文様のある古代織物で、栲(タエ)、紵(カラムシ)、麻などを原料とし、帯として用いられたり祭祀にも使われたようです。倭文氏や倭文部の分布は、畿内では山城、大和、摂津、河内に、地方では伊豆、常陸、因幡、出雲、播磨に認められ、倭文(静)神社の所在や地名の関係からさらに多くの地域に存在したと見られています。

 

本殿と東側の熊野神社、大国主神神社

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畿内の倭文氏は「新撰姓氏録」に「委文」表記で見えます。それぞれ、大和国神別の委文宿祢は『出自神魂命之後大味宿祢也』、摂津国神別の委文連は『角凝魂命男伊佐布魂命之後也』、そして河内国神別の委文宿祢が『角凝魂命之後也』とあります。角凝魂命というと神魂命の後であり、河内国の鳥取氏、三野(美努)氏の祖となる天湯河桁命の先祖にあたります。この二氏は、天湯川田神社御野県主神社の記事で、神魂命の後とされる等から古くは出雲の出身だったのではないかと推測した豪族です。一方で、「古語拾遺」には倭文氏の遠祖は天羽槌男神とされ、この神は武羽槌雄命とも称する機織の神です。

機織りの神をまつった地に倭文氏がいたことはあり得ることだと思いますが、当社に関わったのかは分かりません。なお、奈良市に式外社の倭文(シズリ)神社があります。

 

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本殿と西側の事代主(蛭子)神社、春日神社

 

【社殿、境内】

本殿は、春日大社の摂社・若宮神社の本殿を移築したものと伝えられています。疎垂木の簡素な造りは古式に則ったもの。江戸時代初期のものと考えられると、川西町は説明します。境内社は、熊野神社(伊邪那美命)、大国主神神社(大国主命)、事代主神社(事代主命)、春日神社(天児屋根命)。春日神社の西に校倉造りの宝庫があると、境内掲示にも説明されていましたが、今はなくなったようです。

境内西に、箕輪寺の本堂がありましたが、近年倒壊して礎石跡が保存されています。箕輪山(きりんさん)と称して、寺伝には鳥羽法皇の信仰が篤かったとみえるようです。1430年に兵火にかかり、1436年に再建されたものでした。

 

箕輪寺跡

 

【島の山古墳】

当社入口の石標は、島の山古墳の石棺石に社号を刻んだものです。また、本殿前の鳥居と拝殿の間の通路にも、島の山古墳の石棺石が置かれていて、これらは明治15年の盗掘時に持ち出された兵庫県竜山石製の天井石です。そして盗掘品は、アメリカのメトロポリタン美術館にあるものとみられています。

かつては「島根山古墳」とも呼ばれた、4世紀末築造の前方後円墳で、墳丘長は200mを誇ります。この古墳で有名な副葬品が鍬形石、車輪石、石釧などの腕輪型石製品で、前方部の粘土槨の上面に貼り付けた状態で133点見つかりました。古墳時代前期の代表的な副葬品ですが、一つの埋葬施設から出た数としては最多です。また、この前方部粘土槨からは武器・武具の副葬が極端に少ないので、宗教的な巫女の埋葬が想定され、一方後円部に男王が葬られたとする見方があります。

 

島の山古墳。二の鳥居までの参道西側がこの絶景です。右手が前方部。測量中でした

 

糸井神社の記事で紹介した森光太郎氏の説では、応神天皇の妃となった糸井媛の父の島垂根を糸井造の系統と考え、島の山古墳の被葬者を島垂根と推定されます。島垂根→島足→島根になったとみるのです。そして、糸井神社の祭神を始祖の天日矛命として当社の祭神は妻の阿加流比売と考えておられました。時期として大和川でつながる古市古墳群の築造も始まった時期であり、この古墳が大和川を指向して造られたのは確かだろうと、「大和の古墳を歩く」で森下惠介氏が書かれています。

 

後円部。周濠が工事中でした

 

【伝承】

出雲伝承・口伝を語る「出雲と蘇我王国」で斎木雲州氏は、葛城襲津彦が新羅遠征の功労者であり(この伝承は志紀長吉神社付近にもあるよう)、近畿凱旋後に一時河内湖南の住吉郡桑津村に住んだ後に葛城に移住したと説明されます。そして一緒にいた母のために島の山古墳を築いたとの話になっています。さらに隣接の当社名は、桑津に因むというのです。いかにも伝承めいた話ですが、具体的内容は兎も角、だいたいの流れ的には矛盾はない話と思います。ただ、古墳時代中期の幕開けを象徴するような、渡来人を連れてきた襲津彦王が古墳時代前期の古風な腕輪型石製品を副葬する古墳を造るだろうか?という疑問は有ります。

 

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東側の前方部から後円部を見た図

 

【河内勢力の大和入りと比売久波神社】

当社東方に鎮座する糸井神社の記事で、糸井社の由緒が大倭明神(天理の大和神社)に言及することから、ヤマト王権の「倭の五王」時代の初期に、その勢力の朝鮮遠征に協力しただろう海人族の大和進出に関係するのではないかと想像しました。その頃の海人族との関りがあるだろうと想像した古墳たち、つまり明石の五色塚古墳、岸和田の 摩湯山古墳、そして丹後の網野銚子山古墳や神明山古墳は皆きっかり墳丘長が200mなのですが、この島の山古墳も同じであるのが気になります。島の山は海から遠いですが、大和川を指向しているので水運を意識することでは共通しています。

 

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比売久波神社の拝殿と本殿の間の踏石3つが島の山古墳の天井石です。兵庫県竜山石

 

そこに、機織り神や倭文氏が関わってくるというのは、古い神社でよく見える祭神の重層性であり、つまり、権力を有して進出してきた人々、それによってこの地に連れてこられた渡来人、さらに元々この地にいて権力者と新たな関係を持った(伴造になった?)人たちがごちゃまぜになって見えている結果なのかもしれないと感じました。ただ、在来の人を古い出雲につなげるのは、記紀が出来て以降でも可能かもとの思いもありますが、3世紀以降は確実に山陰の人々が大和(桜井市の纏向遺跡、城島遺跡)に来ているので、その人たちを想定したくもなります。

 

境内

(参考文献:比売久波神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

糸井神社(奈良県磯城郡川西町結崎) 大和神社の神が由緒に併記される謎の機織り神

[ いといじんじゃ ]

 

糸井造という豪族名や、応神天皇の妃となった糸井比売に関わるお名前を持つ神社ですが、あまり具体的なイメージを持てていなかったのが正直なところでした。しかし、ご由緒をよく見てみると、ここ最近個人的に注目していた「倭の五王」関係勢力の大和入り、という流れに繋がりそうな要素がチラリと見えたことから、さっそく参拝をさせていただきました。

 

赤い鳥居が印象的な社叢

 

【ご祭神・ご由緒】

当社のご祭神は豊鍬入姫命とされますが、これは地域の伝承からきているようで、諸説があり謎が多い感じです。そもそも「式内社糸井社縁起」には以下の通りあります。

『応神天皇十四年百済国より博士王仁来朝此時呉国より綾は(漢織)、呉は(呉織)と云う織女来りて此織女河内の国丹比野にかひこをかふことはじめ給ふて織女天皇の勅掟をこうむりて大和の黒田廬戸の宮の辺りにて始めて綾錦をおらしむ是を機織殿という亦結崎の明神或いは絹引神と申すなり貞観三年(861年)に従四位に任ぜらる本殿豊鋤入姫命(是は大倭明神なり)、同二ノ宮猿田彦(是はちまたの神と申して春日の社若宮也)、同三ノ宮綾羽明神同四ノ宮呉羽明神』、と書かれているのです。

 

境内。右側には燈篭が奥まで並びます

 

【「糸井社縁起」への疑問】

「日本の神々 大和」で松田智弘氏は、上記の神社縁起を受けて「大和志料」が疑問を呈している事に触れられます。つまり、『当社は漢織呉織の霊を祭れるなり、然るに豊鋤入姫を本宮としてこれを大倭明神とするは何に由るを知らず、渟名城入姫嘗て大倭明神を祭りしこと国史に見ゆ、疑くは此等より誤り来れるものならん』と「志料」に書かれるのです。たしかに、大倭明神というと「大和志料」の云う通り普通は天理市の大和神社(祭神は大国魂神)のことになり豊鋤入姫とは通常は無縁です。

 

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「式内社調査報告」の乾健治氏も、『(祭神が)土地の名称の通り糸に関係あることは確かで三宮、四宮に祭られている綾羽、呉羽の両神がもとの主神であろう。結崎の地名由来についても諸説に分かれるが、機織りのことに関連した氏族の秦氏が開拓した土地に、殖産工業の神を祭祀したのではなかろうか。西接する大字唐院には同じく延喜式内社の古社、比売久波神社が存在している点からも考察されるべき幾多の点を含んでいいる』と、応神朝に来日した織姫をそもそもの祭神とみます。さらに、当社鎮座地の川西町の南に三宅町が接していることから、そこに居住した秦氏の関わりも考えられます。「三宅」から連想されるのはヤマト王権の政治経済基盤となる直轄地である「屯倉」で、その地は「倭屯倉」の推定地として知られています。

なお、橿原考古学研究所付属博物館の「大和の考古学」によると、5世紀に朝鮮半島南部の集団が渡来した痕跡として、当社鎮座地である大和川合流地点の南側で韓式系土器が出土しているようです。

 

拝殿

 

【祭祀関連氏族】

鎮座地は、「尋尊僧正記」の1468年の条に『城下郡糸井庄結崎』とあるように、古く糸井庄と称していました。「糸」は古くから繊維工業や紡績産業が盛んだった区域であったことにより、「井」は必ずしも井戸ではなく河川など水の集まる井堰を意味すると、「糸井神社祭神考」で森光太郎氏が述べておられます(「式内社調査報告」の引用)。

「日本古代氏族辞典」はこの地名にもとづく豪族が糸井氏だとします。「新撰姓氏録」大和国諸藩に『糸井造。三宅連同祖。新羅国人天日矛命之後也』とあります。奈良時代には、糸井造市人という氏人がいて、経師として経典の書写にたずさわっていました。

一方、その地名「糸井」を持つ姫を重視して、「古事記」の応神天皇段で妃として登場する『糸井比売』に注目する説もあります。つまり、『桜井の田部連の先祖の島垂根(しまたりね)の娘、糸井比売(「日本書紀」は桜井田部連男鉏の妹・糸媛)』とある、桜井田部連が関わるとする考えもあるのです。出自は、「先代旧事本紀」国造本紀に『穴門国造。纏向日代朝御世。以桜井田部連同祖。邇伎都美命四世孫速都鳥命。定賜国造』と見えますが、一般的には大阪府富田林市桜井にあった桜井屯倉の田部を管掌した豪族と考えられています。このように当社の鎮座地とは別の地域になるのですが、屯倉の地である点では共通しています。

 

社殿

 

そしてここから上記の森氏は、島垂根も糸井造だと考えられ、邇伎都美命を天日矛命の子孫であるとみて、糸井神社は糸井郷の氏神として島垂根が高祖天日矛命を祭ったと考えられます。天日矛族が物部氏(出石心大臣命がいる)など広く婚姻を諸氏族に通じていたとみられたのです。これは、当社祭神を天日矛命とみる説であり、さらに島垂根は島垂乃ち島足亦は島根とも称され、寺川を挟んで存在する大前方後円墳・島の山(昔は島根山)古墳を島垂根の古墳と考えらおられました。

 

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一方、大和神社の方の祭祀氏族は大倭直・大倭国造になります。「新撰姓氏録」では大和宿祢の氏名で見え、始祖の説明としては神知津彦、その別名が宇豆(珍)彦や椎根津彦と書かれています。

 

【中世以降歴史】

当地は後世、猿楽師の根拠地となります。観世清次(結崎清次)は観世猿楽の祖で、伊賀の小波多からこの地に進出しました。春日大社や興福寺に奉仕し、姓は平、元は服部氏で、後に観阿弥と云いました。足利氏に仕えてこの地を領し、長子元清が家を継いで二世となります。これが有名な世阿弥です。

 

垣の内の本殿。境内社も隣接しています

 

【社殿、境内】

本殿は、江戸時代に春日大社から移されたもので、桁行一間・梁間一間の春日造。屋根は檜皮葺で、南面します。境内にはおよそ36基の石燈篭が並び立ち、神殿前の慶長八年(1603年)の石燈籠が最も古いそうです。境内社は、本殿と同じ垣の中に、春日神社、大国主・事代主神社相殿、住吉神社、稲荷神社が祭られています。

境内の川西町教育委員会の説明板によると、拝殿の中には絵馬が飾られていて、多くの人々が雨乞いなどの願を掛ける為に太鼓踊りをしている様子の絵馬(1842年)や、おかげ踊りを踊る様子を描いた絵馬がひときわ目につくものです。太鼓踊りの絵馬には、西瓜を切り売りしていたり、僧侶が燈篭に火をともしていたりする様子が描かれ、当時の風習や神仏習合の一端が垣間見える、と説明されています。

 

本殿。春日造。檜皮葺で、垂木がまばらな古い形式

 

【神宝関係】

金石文関連としては、当社の明細帳に記されているものの昭和の頃には所在不明になっているものに内陣机の銘があります。『天文二稔(1543年)卯癸正月廿六日釿始、城下郡結崎郷和宮内陣机也』とあるものです。乾氏は、これにより当社を大倭明神とすることが、室町中期までさかのぼることができるとしています。

 

境内を印象付ける燈篭

 

【大倭明神と天日矛命信仰】

当社北側は、大和川(初瀬川)が寺川、佐保川、飛鳥川、曽我川等と合流する地であり、さらに大和川(初瀬川)を遡ると西方1キロの所に倭恩智神社が鎮座しています。倭恩智社の海知地方はもともと大倭邑(市磯邑)であり、この古地名が渟名城入姫が大国魂神を大和神社(大倭明神)に祀ったことに起因して付けられた、その周辺の汎称だったとする考えがあります。

 

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以前の倭恩智神社の記事で、大阪八尾の恩智神社倭恩智神社は、和の五王の始まりの頃くらい(4世紀末頃~5世紀始め)に、大和川を通じて大阪平野の勢力~ヤマト王権に紀氏(≒祖神・宇豆彦)と共に協力した大阪湾周囲の海人族(≒祖神・椎根津彦→大倭国造になる)が奈良盆地に進出してきた名残ではないかと推測しました。大阪平野の河内湖周辺ではいち早く朝鮮渡来人(呉を朝鮮半島の国とする考えもあり)の痕跡が現れましたが、当然その動きは奈良盆地にも拡がっており、機織職人も連れられてやって来たでしょう。

また、和の五王の時代の端緒となったのは、天日矛命(やその子孫の田道間守)の後裔である息長帯姫(神功皇后)の新羅遠征だと記紀上ではされており、これ以降確かにやってくる朝鮮系渡来人の信仰が「古事記」の天之日矛とその妻・阿加流比売神の所伝につながっただろう考えもあることから、そのような連れて来られた人々や、連れてきて有力者になった大倭国造(≒祖神・神知津彦。大和神社祭祀氏族)の信仰が混然となってしまったのが今の姿かもしれないと感じました。さらにそのことが、墳丘長約200mの島の山古墳にも関係してくるようか気がするのです。

 

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(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、三浦祐之「風土記の世界」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

於美阿志神社(奈良県高市郡明日香村檜前) 飛鳥歴史公園に今も残る渡来系雄族・東漢氏の檜隈寺跡

[ おみあしじんじゃ ]

 

飛鳥のキトラ古墳壁画体験館 四神の館で、国宝壁画の公開に申込んだことから、近接する当社つまり檜隈寺跡を訪問しました。キトラ古墳壁画は、西壁の白虎と東壁の青龍を20分ほど拝見でき、特に白虎の生き生きした描き方に関心しました。世界文化遺産の登録を目指す飛鳥歴史公園の中でも南側のキトラ古墳周辺地区にあたる地域で、当社檜隈寺跡とキトラ古墳が主要遺跡に位置付けられています。地区内には無料駐車場や展望台、トイレも整備され気軽に訪れやすい感じになっています。

 

キトラ古墳

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は阿智使主神夫妻。阿智使主は古代渡来系の雄族とも言える東漢(やまとのあや)氏の始祖とされ、この鎮座地はその東漢氏の氏寺として造営された檜隈寺跡(ひのくまでらあと)として有名な地です。社名は、「於美」と「使主」、「阿志」と「阿知」の音相似から、阿知使主を祀ったことに由来するものと推定されると、「日本の神々 大和」で大矢良哲氏が書かれています。「延喜式」神名帳には高市郡の小社として登載されています。

 

拝殿

 

渡来人がこの檜隈に居住することが見えるのは、「日本書紀」雄略天皇二年の、身佐村主青と檜隈民使博徳の記事が初出で、身狭は現牟佐坐神社の周辺、檜隈は当地檜前を中心にした小盆地をさすと考えられます。同天皇八年と十四年にその身狭村主青と檜隈民使博徳が呉に渡り、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫などの織機技術者を連れて帰朝したことが記されています。

 

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社殿

 

【祭祀氏族・東漢氏】

歴史時代になって以降では、「続日本紀」の光仁天皇宝亀三年(772年)にこの地方の氏族に関する記述があります。つまり、『正四位下近衛の員外の中将兼安芸守勲二等坂上大忌寸苅田麻呂等言す。檜前忌寸を以て、大和国高市郡司に任ずるの原由は、先祖阿智使主、軽嶋豊明宮に馭宇しめす天皇の御世、十七県の人夫を率て化に帰せり。詔して高市郡檜前村を賜ひて居しむ。凡そ高市郡内は、檜前忌寸及び十七県の人夫地に満ちて居す』これは、「書記」応神天皇二十年の『倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て来帰り』との所伝と一致していると考えられ、その阿智使主が檜前村と結び付くのです。

 

本殿。一間の流造

 

「日本古代氏族事典」による説明では、東漢氏は4,5世紀以来の渡来系氏族で、西漢(かわちのあや)を含めて漢氏と呼ばれることもあります。姓は直、のちに連、忌寸となる氏族です。阿知使主については、「続日本紀」延暦四年(785年)の坂上大忌寸苅田麻呂らの上表ににも見えていて、『後漢霊帝之曾孫阿智王』とあり、また後裔となる坂上氏の「坂上系図」には漢高祖皇帝の曾孫で『阿知王』、或いは霊帝の曾孫で『阿智使主』とあります。雄略天皇の時代に漢部の伴造となって直の姓を賜り、以後、渡来系技術者と漢部を統括し、奈良盆地南部のこの檜前の地で隆盛しました。六世紀には、書(文)、坂上、民、長などの枝氏に分かれます。飛鳥時代には蘇我氏に接近し、乙巳の変の時には、蘇我入鹿が殺害された後、武装して蝦夷の身辺を警護したとされています。

 

拝殿のそばに檜隈寺講堂の瓦積基壇があります

 

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阿知使主が後漢霊帝曾孫とされることについて、「氏族辞典」で加藤謙吉氏は、「漢」の地名に基づき出自を二次的に中国王室へと改変したにすぎず、本来は朝鮮渡来人であり、百済とする説、加羅諸国中の安羅とする説があり、後者が妥当か、と述べておられます。そして東漢氏は、檜前を中心に活動した集団が擬制的に同族関係を組織したものとされています。ちなみに、上記した坂上大忌寸苅田麻呂は征夷大将軍になったことで有名な坂上田村麻呂の父にあたります。坂上氏が関わる神社は多く、これまでも呉服神社(大阪府池田市)、茨木神社(大阪府茨木市)、杭全神社(大阪市)などがあり、この氏が発展したことを忍ばせます。

 

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檜隈寺講堂基壇上の礎石。見えてる建物は拝殿です

 

【檜隈寺跡と境内】

社殿の周辺に土壇が残り、平安後期といわれる檜隈寺址十三重石塔(重要文化財)が立っています。現在は十一重が残るまでで、上部の二重と相輪は失われています。昭和44年にその十三重石塔の解体修理を行ったのに伴い奈良県教育委員会による土壇調査が行われ、また昭和54年から奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査の結果、檜隈寺の主要伽藍の配置が明らかになりました。創建は7世紀前半と見られています。

 

講堂の基壇を別方向から


その配置は、社殿北方の土壇は講堂跡、南方の二つの土壇のうちが残る北側が塔跡、南側が金堂跡、社殿西南の小高いところが西門跡だと推定されています。講堂は桁行五間・梁間二間で、瓦積基壇の上に建ち、その規模は飛鳥寺や法隆寺西院伽藍の講堂に匹敵するものと考えられているのです。一方、十三重石塔がその上に建っている塔心礎は、巨勢寺に似た精巧なつくりのようです。また、金堂は桁行三間、梁間二間で、二重基壇の上に建っていました。

 

十三重石塔。塔の基壇に立ち、礎石も残ります。前日まで雪でした

 

これらは塔を挟み、北に講堂、南に北面する金堂という、西向きの珍しい伽藍配置になっているとみられています。「日本書紀」朱鳥元年(686年)条に軽寺・大窪寺とともに檜隈寺に『三十年に限り百戸を封ず』とする記事があり、大矢氏はこの時期にはすでに存在したと考えておられました。なお、塔心礎に納められていた褐釉四耳壷の中からは、青白磁合子に納められたガラス製舎利容器が発見されています。

 

十三重石塔

 

【中世以降歴史】

当社は檜隈寺の守護神としてかつては現在地の少し西にあり、近世には檜隈寺の後身となった道興寺の僧が寺社職を兼ねていたとみられます。「大和志」に『於美阿志神社は檜隈村にあり、僧舎は道興寺といふ。傍らに十三重石浮屠有り。大根田村と共に祭祀に預る』と見えています。

 

金堂のあった辺りには境内社が並びます

 

【東漢氏と関わる古墳】

この檜前地域は、有名な高松塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳など、天智天皇以降の皇族や文武天皇(中尾山)が被葬者として推定されている古墳時代終末期以降の小古墳が多いですが、東漢氏とのかかわりが考えられる古墳群としては、より西側の明日香村越から高取町与楽に存在します。いずれもドーム状(穹隆状)の横穴式石室を特徴とし、副葬品としてミニチュア炊飯器や銀製指輪といった外来系の副葬品を持っていることから東漢氏に関わるとみられます。

 

真弓鑵子塚古墳。牽牛子塚古墳から歩いてすぐ

 

個々の古墳としては、真弓鑵子塚古墳(明日香村、6世紀中頃~後半、径40m円墳)、与楽鑵子塚古墳(高取町、6世紀後半、径28m円墳)、与楽乾城古墳(高取町、7世紀前半、一辺36m方墳)、寺崎白壁塚古墳(高取町、7世紀中頃、一辺30m方墳)等が存在し、これら古墳の巧みな石積みから高い技術を持っていたことがうかがえると、「大和の古墳を歩く」で森下惠介氏が書かれています。

 

与楽乾城古墳

 

真弓鑵子(かんす)塚古墳は、2段築成の円墳で、見た目が茶釜を思わせることから「鑵子」の名がついています。片袖式石室は6~7段積みで多段なので上記した築造時期が考えられています。石室は上部で急激に持ち送ってドーム状にしていて、さらに玄室の両側に羨道があるかのようなレイアウトになっていますが、奥側は奥室とみる見解があります。与楽乾城(かんじょ)古墳は2段築成の方墳で、石室は両袖式。段数は4~5段となり、ドーム状の天井高さは5.27mと奈良県一の高さを持っています。

 

真弓鑵子塚古墳に近い、復元された牽牛子塚古墳

(参考文献:古都奈良飛鳥保存財団HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

磐船神社(大阪府交野市私市) 饒速日命の天磐船神話に偲ばれる物部東遷は大和のどこに天降ったのか

[ いわふねじんじゃ ]

 

当社独特の磐座めぐり参拝は一人ではできないのですが、磐座めぐりが出来たとしても写真は撮影できないのだからと、踏ん切りをつけて参拝させていただきました。準構造船の竪板のごとく、とんでもなく大きな御神体はやはり圧巻でした。平日でしたが、磐座めぐりに向かわれる方々がちらほらおられ、人気のようです。今回は、当社が大いに関係する「先代旧事本紀」の説明や『物部東遷』について、あれこれ思いをめぐらしました。

 

天野川から境内方面。境内は左岸で橋の下に磐座が少し見えます

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、物部氏の祖神である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)。当社はこの神を、亦の名「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」で呼びます。これは、尾張氏・海部氏の祖神である火明命(ホアカリノミコト)とまとめて同一人物の如く呼ぶ名前であり、当社の由緒の根拠となる「先代旧事本紀」と、「海部氏勘注系図」(「海部氏系図」の一つ)で使われています。以降は、基本、物部氏の饒速日命を前提として記します。

「日本書紀」では、神武天皇東征より前の時点で、東の方(大和)に天の磐船に乗って饒速日命がとび降った良い地がある事が記され、その地に東征後、饒速日命は神武天皇に帰順します。そして即位後の国見の際に、『饒速日命、天磐船に乗りて大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて「虚空見日本国(ソラミツヤマトノクニ)」といわれた』と回想する形で書かれています。

906年成立とみられる「先代旧事本紀」では、『饒速日命、天神御祖の詔をうけ、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す。さらに、大倭国鳥見白庭山(桜井市の三輪山とする説も有り)に遷り坐す。いはゆる天磐船に乗り、大虚空にとび行きて、この郷を巡りみて、天降り坐す。すなわち、「虚空見日本国」といふは是なり』と、ここで具体的に饒速日命の移動経路が記されているのです。

 

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神社石標の裏の巨岩

 

【「河内国河上哮峯」の位置】

「旧事本紀」に記載の『河内国河上哮峯(タケルガミネ)』がこの北河内の生駒山である事はほぼ定説です。そして、『河上』について、「日本の神々 河内」で大和岩雄氏は、当社の下を流れる天野川の源は生駒山で、そして天野川が淀川を下流にもつことから、大阪湾から淀川をさかのぼって天野川に入れば、その「河上」に生駒山がある事によると見ます。大和氏はここに、物部氏の「東遷」経路の一つである、難波から淀川、天野川を利用して生駒山から大和に入ったルートが反映していると考えます。

一方、「哮峯」については、「大日本地名辞典」の吉田東吾氏が、江戸時代から語られていたという生駒山の最高峰だとみておられる一方で、同じく江戸時代の「河内志」は四條畷市上田原の磐座山を充てています。この上田原の磐座山は、「住吉大社神代記」の「胆駒神南備山本記」が『胆(生)駒』の四至の北限を「饒速日山」だと書き、その饒速日山を磐座山にあてる説が有力です。この山は当社と生駒山頂のほぼ中間になります。田原の住吉神社には、磐船神社が一時衰退した時に他社に遷した宝物の一つと見られる、「磐船宮」の銘が入った蓮の台の神輿があるらしく、関りを感じさせます。

大和氏は、神話伝承なので、生駒神南備山の四至の範囲内でも、生駒山の山頂でも、「哮峯」としてはどちらでもかまわないだろうと確定はされてません。また、住吉大社が生駒山を神南備山とすることを「不審」とみる考え(吉田東吾氏)があるのに対しては、「火明饒速日」という二神を合体した神が天降るのだから、火明命を祖とする尾張氏系津守氏の祭祀する住吉大社が生駒山を神南備山とするのは、べつに「不審」ではないと考えます。

なお、交野市は「哮が峰」と表記して、「府民の森ほしだ園地」内にあると説明しています。ロッククライミングが行われている岩山です。

 

拝殿と「磐船」を臨む

 

【祭祀関係氏族】

当社の現住所は交野市ですが、かつての交野郡に属し、この地は交野物部氏の本貫地であると見るのが一般的です。「旧事本紀」天神本紀には、天物部等二十五部の人々が、天孫の天降りのときに供奉したとあり、その中に「肩野物部」がいます。肩野は交野のことです。

また同書の天孫本紀に詳述される物部氏の系譜には、饒速日命六世孫伊香色雄命の子に多弁宿禰(崇神天皇期の宿禰)が見え、この方が宇治部連と交野連の祖がと書きます。さらに、十三世物部目連公(継体天皇期大連)の子の物部臣竹連公も宇遅部連、肩野連の祖だとあります。「新撰姓氏録」では左京神別に物部肩野連、右京神別にも肩野連が見え、いずれも伊香色雄命の後だと書かれています。

「延喜式」神名帳には当社は見えません。「旧事本紀」の成立が906年として、「延喜式」が927年なので、「延喜式」制作の頃は氏族独自の信仰の場で、まだ「河上哮峯」の神社として著名でなかったか、あるいは成立してなかったということでしょうか。

 

磐船が覆いかぶさる拝殿。磐座めぐりは左の鳥居をくぐって入っていきます

 

【物部氏の死と再生の太陽信仰】

「旧事本紀」天神本紀では、饒速日命が天降る際に、天神御祖から十種の神宝を与えられて『もし痛むときがあったら、この十種の瑞宝(みずのたから)を取って、一二三四五六七八九十と唱えて振れ、ゆらゆら振れ、かくすれば死人もよみがえるであろう』と詔を受けた事が書かれ、これが、石上神宮や、さらには宮中で行われる鎮魂祭の起源ともされます。大和氏によれば、鎮魂祭のタマフリ、タマシズメの儀礼は、太陽信仰に関わる死と再生の儀礼にも通じ、物部氏と関係が有ると推測できることが、折口信夫氏、上田正昭氏、松前健氏など多くの研究者らによって以前から述べられてきたそうです。

 

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住吉大社が生駒山を神南備山とする事と関係すると思われるのが、和の五王の時代に上町台地にあったと推定される難波宮(発掘されているのは孝徳天皇期の長柄豊崎宮まで)の真西に生駒山の最高峰が位置する事です。さらに大和氏は、偶然の一致といってしまえばそれまでだがと断りつつ、当社磐船神社と天照大神高座神社は、その難波宮を基点とすれば、それぞれ夏至と冬至の日の出方向にあると書きます。さらに生駒山山頂から大和を見ると、物部氏の石上神宮は冬至の日の出方向になるというのです。ここで日の出とは、死んだ太陽の再生だとみる考えが根本にあります。

 

なお、十種の瑞宝に含まれるのは、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死返玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼の十種で、鏡、剣、玉類は古墳時代に盛んに古墳に埋葬されるものです。

 

ご神体石と背後の山。さすがに圧巻の大きさ

 

【交野市天野川上流域の古墳】

交野市の天野川上流域では、当社の北3キロほどの森地区に、古墳時代前期の前方後円墳を中心とした森古墳群が存在します。まず、3世紀末(4世紀初頭とも)に前方後方墳の鍋塚古墳(67m)が築造されたのち、4世紀初頭に113mの前方後円墳である森1号(雷塚)古墳が出現するのです。その後の4世紀の期間に、森2号(前方後円墳、55m)、森4号(前方後方墳、51m)森3号(前方後円墳、42m)、妙見山古墳(不明)、交野車塚古墳(前方後方墳、65m)を含む交野車塚古墳群と、首長墓系譜と言える形で連綿と築造されていきます。

 

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特に森古墳群は丘陵上の景勝の地で、峠道および磐船街道を介して奈良盆地にアクセスできる要衝の地であることから、奈良盆地の畿内中枢勢力との関係により築造されたと、「淀川流域の古墳時代」で下垣仁志氏が書かれています。森古墳群は、一部の埴輪、土器、墳形等の他はほとんど内容が分かっていませんが、交野市立歴史民俗資料館は、森古墳群が肩野物部氏の古墳だと考えられていると説明しています(ただ、その説明パネルの作成時期はたいぶ以前かもしれません)。

4世紀末以降の古墳時代中期になると、中国・朝鮮半島との往来が盛んになり、森遺跡、私部南遺跡、坊領遺跡などでは鉄器生産も行われ、肩野物部氏が招いたと思われる渡来系の技術集団が関わったと資料館は説明します。しかし、この中期には古墳は造られておらず(淀川近くに移動)、後期初頭の車塚6号墳まで待つことになります。

 

茂みで見えませんが左側に拝殿があります。天野川に磐船がかぶさっています

 

【物部東遷と「海部氏勘注系図」の語る火明饒速日命】

今回確認した大和氏の文章の中で、物部氏が東遷して交野から大和に入ったと書かれていますが、どこから東遷したかは書かれていませんでした。物部東遷に関しては、饒速日命に随行した物部二十五部の名称から、筑紫の国の遠賀川流域の地名と畿内方面の地名との関係が顕著なので、人々の移動によって筑紫の地名が畿内にもたらされたという説が、田中卓氏、安本美典氏、鳥越健三郎氏、谷川健一氏らによって説かれている事を、安本氏と古代史研究をされていた志村裕子氏が紹介されていました。つまり、物部氏が九州北部から大和に入ったとする学説があるのです。

志村氏は、「旧事本紀」と同様に『火明饒速日』名を書く元伊勢籠神社の「海部氏勘注系図」に注目されます。その文書には、同一神である天火明命が、まず丹波国(後の丹後国)の伊佐奈子嶽あるいは凡海息対島(京都府宮津市付近)に天下り、その後由良の水門(由良川の河口)に遷ったと書きます。それから、「旧事本紀」と同様に天磐船に乗って凡河内国に降りたと書くのです(哮峯の記載は無し)。つまり志村氏は、その祖神の降臨譚の元になったであろう物部氏の移動経路としては、北九州→(日本海沿岸)→丹後→河内国の交野→生駒山→大和・石上というルートを想定されます。

 

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「勘注系図」が引用する「丹後国風土記(残欠)」には、天火明命の子と孫にあたる、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に行き、真名井の霊泉を真名井原の匏宮(よさのみや与謝宮に供え、稲作が広まって人民が豊かになった話が載ります。あくまで神話ですが、時期としてはそのような稲作が広まっていく時期、つまり弥生時代の神々との理解になります。ただし、この御二方は尾張氏・海部氏の祖神となる方で、物部氏に含めることはありません。

 

拝殿前はこじんまり狭いです。右の垣の外は道路

 

【弥生時代後期の日本海勢力】

「旧事本紀」や「勘注系図」の神話は稲作の広まった時期の話も含まれるようですが、そこに喩えられた人の活動やその移動に関する事はいつの頃のことなのかは不明と言わざるを得ません。それでも、古墳時代前期における交野市の森古墳群の画期と、この時代に河内地域の北部と南部の物資交流が始まっていく(下垣仁志氏)ことから、弥生時代後期からヤマト王権の始まりとなる古墳時代前期の期間につなげたくなります。

森岡秀人氏は「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」の中で、弥生後期は分立した地域勢力段階(キビ・イズモ・ツクシ・ヤマトなど)にあり統合に向けた活動を始めていたと述べられます。そして、のちのヤマト王権の覇権は近畿南部が握った事を前提に考えるなら、弥生後期は物流の求心力が南部の低下に対して北部における高まりが顕著になっているとみます。青銅製威信財の流入自体も中南河内・大和の地域を避けたような動きに変わるそうです。弥生後期初頭には、大阪府岸和田市の池上曽根遺跡が衰退し、奈良の唐古・鍵遺跡では青銅器生産を停止しているのです。

 

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そのような中、北部九州と別個に、日本海沿岸地域(島根県から石川県)で鉄刀、鉄剣が飛躍的に普及します。それも、北部九州からのリレー式な伝搬でなく、日本海側の集落や墳墓被葬者が個別に入手していると、森岡氏は述べます。そして、弥生後期以降、どのようにヤマト王権に繋がっていったかは今後の課題ですが、少なくとも畿内の弥生後期の社会からヤマト王権に発展したという考えは現在は低調で、上記した各地域勢力がどのように合成して行ったかのメカニズムを主唱する学説が生み出されてきている、と説明されています。

 

磐船稲荷大明神

 

【大和纏向遺跡の製鉄】

弥生時代後期は日本海側が元気だとなると、上記の志村氏の「勘注系図」による丹後降臨→交野移動説に目が行きますが、森岡氏は北九州と日本海側はバラバラに動いていると述べている事が留意されます。また、出雲地域と丹後地域の現在の子孫の方々(つまり、それぞれ出雲伝承・口伝と、籠神社の海部宮司)が、ヤマト王権や「日本書紀」に対して今だに怒っておられるという事実もあり、日本海勢力が一般的に云うヤマト王権に直接つながったとは考えにくいところです。やはり、火明命と饒速日命は一体でなく別神と見た方が良さそうで、「旧事本紀」と「勘注系図」は、それぞれ別の氏族による大和移動の動きをゴチャマゼにして伝承している(「勘注系図」の河内国云々は「旧事本紀」にあやかっての単なる引用か?)と見たくなります。

 

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橿原考古学研究所附属博物館は特別展「桜井茶臼山古墳」で、ヤマト王権初期の遺跡である纏向遺跡(桜井市)で、北九州地域から積極的に技術を取り入れ、3世紀中頃以降に鉄器生産を始めたと説明しています(弥生時代の大和は鉄器生産も低調と言われています)。北九州とする根拠は、鞴羽口の断面が蒲鉾形である事で、サイズも近いことから直接的な関係が指摘されているそうです。また、纏向遺跡は土器に関しては、山陰、北陸、尾張を始め各地の外来土器が見られる事でも知られています。つまり、各地の人々が一同に会する坩堝のように見えるのです。

 

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一方、同じ時期の布留遺跡(天理市)の鞴羽口は略円形で異なり、北九州との鉄器生産の関係は纏向で直接的な事が強調されています。となると、石上神宮のある布留地域は、3世紀ころには纏向で鉄器生産をしてた人々とは違う人々が居た印象になります。布留地域からは石上竹之内で弥生後期の銅鐸が見つかっており、さらに、この辺りで物部氏に関わると見られる古墳群が本格的に築造されるのは5世紀後半以降だと研究者(白石太一郎氏等)も見ているのです。となると、3世紀に九州の人が布留の方に来て権力を振るっていたということはなさそうだ、ということです。

 

磐座めぐり入口

 

(参考文献:交野市立歴史民俗資料館展示説明、広瀬和夫・梅本康広編「淀川流域の古墳時代」、森岡秀人「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」、雑誌「邪馬台国」第130号、橿原考古学研究所附属博物館特別展「桜井茶臼山古墳」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍