
[ かつらぎのみあがたじんじゃ ]
「大和の六御県」でまだ参拝していなかった葛木御縣神社を訪れました。住宅街や学校の隙間にかろうじて鎮座している風ですが、そこに至るには下記するような変遷があったことに、改めて気の遠くなるような長い歴史をくぐりぬけてきた地域の信仰の強さを感じました。また、ご祭神の一柱、謎の神・剣根命が何者なのかについて大いにロマンをつのらせました。

【ご祭神・ご由緒】
社伝では、ご祭神を邇邇芸命と天剣根命とします。ただし、神社に備え付けられた解説文(葛城市歴史博物館の神庭茂氏による。2023年12月付)によると、邇邇芸命一柱であり、剣根命については、葛城国造(葛城直氏。武内宿禰後裔の葛城氏とは別氏)の祖先とされることから結び付けられて、明治時代になって合祀されたと説明されています。
本来は、下記に記します大和の六御県の一つ・葛木御県に坐す神、御県の国魂神であったろう(「延喜式」祈年祭の「祝詞」には「御県に坐す皇神等」とある)と、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。創祀年代はご多分に漏れず明らかではありませんが、御県神社は大和のみで祀られている事、しかも朝廷にゆかりの深い六郡にのみ限られていることからも、創立は古いとみられます。木村氏は、おそらく飛鳥・藤原京時代にまで遡るだろうと考えておられました。

【大和の六御県】
大和の御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位、すなわち大王の直轄地のことだと言われています。「日本書紀」大化元年(645年)八月条に『其れ倭国の六県に遣さるる使者。戸籍を造り、幷て国畝を校ふべし』と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されていました。
・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗) ☚当社

【神階等古代記録】
730年の「大倭国正税帳」は断簡で葛下郡を欠いているので当社の事は不明ですが、そこには添御県、志貴御県、十市御県、山辺御県の各社の名がみえることから、六御県社それぞれに大和国の神戸を有していたと考えられます。「新抄格勅符抄」に見える806年の牒によると、当社は備前国に封戸を授けられています。859年に神階が従五位下から従五位上に昇叙され、「延喜式」神名帳には『葛木御県神社 大。月次新嘗』と堂々の大社として登載されています。

【鎮座地の移動と飯豊女王陵墓】
天皇家や古代豪族の権威が平安時代を経て時代とともに失われるにつれて、国家が祭祀した神社の多くは衰微しましたが、当社もその例にもれず、八幡神社(武神)や天満神社(学問神)など時流にのった新興の神社におさえられた、と木村氏は古社の衰退経緯を説明されます。
そして江戸時代に鎮座地の変更があったことが「大和志料」にみえます。つまり、当社はそもそも桑海村にあったのを、永宝八(1680)年に領主の桑山氏の信仰する諸鍬・八幡二神を北花内村埴口陵(飯豊女王陵)の上に遷し祀ることになり、その際に当社を含めた近郊の十村の産土神をも同じところに鎮座させられたのです。その中で八幡神の祠を本社として、その他の神社は末社とされました。

それが、幕末の元治元(1864)年に、現在でいう陵墓にあたる古墳を修造(文久の修陵)することになり、当社が式内社でも特に大社であるということが重視されて、他の諸社とは独立して再び故地に復祀されることになったのです。ただ、そのときすでに桑海村の旧地は西光寺の地蔵堂の一角を除いて人家が密集していたため、その西100mの現在地に遷座されました。
国立公文書館内閣文庫所蔵「山陵図」では、文久修陵前後の飯豊女王陵の様子が描かれた絵図が確認できて、前の「荒蕪図」では、前方部西南の角から延びる参道が有り、朱塗りの鳥居と八幡宮の社殿が確認できます。南側の一段下がった部分には、四棟の建物の屋根が木々の間から覗いており、神主と禰宜の居宅とみられています。

【葛城御県の設置と剣根命】
この南葛城地域は、古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀末)は葛城鴨氏、古墳中期(4世紀末~5世紀末)以降は葛城氏の勢力域と考えられています。当社の西方300mそこそのの所に、現在は屋敷山公園として整備されている屋敷山古墳(5世紀中頃の前方後円墳、墳丘長135m)があり、葛城氏の古墳とみられます。それが、ヤマト王権の直轄地になった経緯については、「日本書紀」の記述から研究者により検討がされています。
そもそもの発端は、安康天皇を殺害した眉輪王をかくまった葛城円大臣が、雄略天皇に責められ、その贖罪の為に「葛城宅七区」を天皇に差し出したことにあります。その雄略天皇の時期に葛城氏は滅亡したとみられますが、天皇の没後は、葛城氏の血筋を引く飯豊女王(天皇とも。その伝承地が角刺神社)や顕宗・仁賢天皇の時代となり、これら大王クラスが基盤としたのが「葛城宅七区」であり、それが後に葛城御県に編成されていったとの説が有るのです(平林章人氏)。
このことが、「書紀」の推古天皇三十二年に、葛城氏と始祖・武内宿禰を同じくする蘇我馬子が推古天皇に対して、「葛城県」を祖先の地であるからと主張して返還を求めたことにつながるとみられます。対して推古天皇はこれを拒否しています。

ただ、上記の経緯は理解できるものの、それでは「書紀」の神武天皇二年に『剣根を葛城国造とした』と書かれた事とどう繋がるのか、が気になります。剣根命の後裔は「新撰姓氏録」大和国神別に『葛木忌寸。高御魂命五世孫。剣根命之後也」と記される葛木氏で、これが県主や国造となった豪族であり、武内宿禰後裔の葛城氏とは全く別だからです。「先代旧事本紀」天孫本紀では、『葛城の土神剣根命』とその由緒の古さが強調されていたりもします。
【剣根命後裔・荒田氏と大田田根子】
ここで、「姓氏録」和泉国神別で同じく剣根命の後とされる荒田直氏に注目したいです。大阪府堺市の陶荒田神社の社名にもなっている豪族で、この神社は大田田根子も祀られています。(大国主命の後の)大田田根子は三輪君と葛城鴨君の祖であり、大田田根子の孫の大鴨積命が葛城・御所市に祀ったのが鴨都波神社だとする由緒もあります。「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏は、『(剣根命後の)荒田直と大田田根子は大和葛城でも結びつく』と書かれています。そして、長柄神社の記事で記しましたように、考古学の発掘成果から葛城鴨氏は古墳時代前期(あるいはそれ以前も)から葛城地域に勢力を持っていた可能性が高い豪族と見ることができのです。
陶荒田神社の鎮座地はその名前から分かるように、「書紀」で大田田根子が見つかったとする陶邑に関りますが、この「陶」は5世紀始めから盛んに製作される土器・須恵器を指すと見られています。一方、三輪山の祭祀遺跡でその須恵器が出土することから、和泉の陶邑にルーツを持つ三輪氏が、古墳時代中期(4世紀末から5世紀末)以降に三輪山に進出して三輪山の祭祀を行うようになったとみるのが、現在の定説らしいです。

しかし、三輪氏・葛城鴨氏と剣根命後裔の葛木氏は、陶邑や大和葛城で結び付き、葛城鴨氏は古墳時代前期以前から大和南部に居住したとみられるのですから、これら豪族は少なくとも古墳時代前期から和泉地域を含んだ畿内南部で活動をしていたと思いたくなります(出雲伝承・口伝は、大田田根子は葛城鴨氏や磯城の三輪氏の分家と主張)。大和岩雄氏の、『須恵器生産の新しい技術は、葛城国造や鴨君などの仲介を得て、はじめて三輪の地に入ったという事実を(中略)大田田根子伝承は反映しているのであり、陶荒田神社も葛城鴨氏にかかわる荒田直らが陶邑に居住して、祀ったものなのであろう』という考えが理解しやすいです。
ということで遠回りしましたが、剣根命は葛城御県神社に直接つながらなくても、その鎮座した地域のそもそもの産土神であり、この神は出雲系の葛城鴨氏に近いかもしれない(高御魂命の後というのが引っ掛かりますが…)という、個人的な感想を持ちました。

(参考文献:葛城氏歴史博物館説明書、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、、谷川健一編「日本の神々 大和・和泉」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)
















































































































