
[ すがわらてんまんぐう/すがわらじんじゃ ]
奈良の平城京跡遺跡公園として復元の朱雀門や大極殿が整備されている地域の直ぐ西方に鎮座する神社です。菅原道真公を祭る天満宮ということですが、「延喜式」神名帳に載っている天満宮?ということで、その古い由緒を確かめたく参拝をさせていただきました。こじんまりした境内ですが、平日でも参拝者が散見され、一目置かれる古社だと感じました。

【ご祭神・ご由緒】
現在のご祭神は、天穂日命、野見宿禰命、菅原道真公の三柱です。当社は「日本最古の天満宮」と謳っておられますが、確かに「延喜式」神名帳の大和国添下群の小社「菅原神社」と見えるのが当社ですので、「延喜式」以降に登場する天満宮各社に対して確かに一番古いことになります。つまり、古墳時代に古墳築造・埴輪や土器製作で活躍した土師氏から分かれた氏族の一つである、菅原氏の旧館の地に鎮座した神社とみられています。

ただし、927年の「延喜式」式内社のご祭神に天神・菅原道真公が祀られたはずはないわけで、「社記」には古く祭神は「新撰姓氏録」で土師氏の祖神とされる天穂日命一座であり、いつのころからか天穂日命の後とされる野見宿禰命と菅原道真公を配祀して三座としたと書かれているようです。「天満宮」を呼称し始めたのもこの経緯からでしょう。当社の東100メートルのところに、菅原道真公の産湯池と伝えられる天神堀がありますが、「日本の神々 大和」での土井実氏は定かでないとし、「式内社調査報告」での大矢良哲氏は菅家の旧館だったとする事からの誤りだとみておられました。
それよりも、当社が「最古の天満宮」と称する正当性や根拠は、後述する、西方400メートルほどの場所に1990年に発掘された菅原東埴輪窯跡(菅原はにわ公園)にこそあると思います。

【祭祀関連氏族・土師氏】
当社の入口にあるご由緒書きでも説明されるのが、「日本書紀」垂仁天皇三十二年条にみえる、野見宿禰命の伝承です。日葉酢姫命の陵墓を築造する際に、それまでの殉死にかえて埴輪~ここでは人の代わりだから人形埴輪を建てることを進言した話で、この中で野見宿禰命が土師連氏の先祖だと書かれ、これが土師連氏が天皇の喪葬を掌る始まりとなったというものです。以降、「書紀」だけでなく「続日本紀」に至るまで、葬礼に関わったり諸陵司や喪儀司の官人になった人がたくさん登場します。「書紀」天武天皇十三年条には、宿禰の姓を賜ったことがみえています。古墳時代の土師氏の拠点は、大和の当社鎮座地付近の他に、河内の百舌鳥・古市古墳群にもあったと考えられています。
8世紀になると土師氏の伝統的職掌が火葬の普及とともに衰微していき、官人としての叙位も五位程度で外位に置かれるようになります。それまでも、軍事(土師連馬手ら)や外交(土師連八手ら)に関わる氏人が散見されるのも、律令制に適応する新たな道を探る動きだと見られています。

【土師氏の分立と菅原氏】
その打開策として、「続日本紀」781年に土師宿禰古人と土師宿禰道長ら15名が改姓に関する奏上をしたことがみえます。つまり、『もっぱら凶儀のみに仕えるのは、祖先以来の業をふりかえって考えると、我らの意図するものではない』と言って、土師の姓を改め、居地に従い菅原とすることを申請し、許されるのです。これが当社に関わる菅原氏の始まりとなりました。

782年には同族の土師宿禰安人らが秋篠と称することを許され、また790年には朝臣姓を賜り、桓武天皇の外祖母である土師宿禰の一族らが大枝朝臣を称することが許されます。こうしてもともと四つの系統があったとされる土師氏が、菅原朝臣、秋篠朝臣、大枝朝臣の三氏に分立していったのです。これにより、従来からの職掌から解放されます。
菅原朝臣氏の一族は文人・学者が多く輩出しています。上記の奏上をした古人と道長は親子で、古人の別の子の清公は遣唐判官を務め唐にも行った人。帰朝後には天皇の侍読となり、「令義解」などの選者になっています。その清公の子が是清で、この人が道長の父です。是清も学業優秀の人で、文章博士など儒門の要職を歴任し、「文徳実録」の編修にも加わっていました。有名な道長公以前にも、重要な書物にことごとく関わっていた人たちだったということです。

【野見宿禰による埴輪伝承の真偽】
「日本書紀」の野見宿禰の埴輪伝承においては、最初の埴輪が殉死の人の代替策としての埴輪、つまり人物の埴輪だという話になっていますが、考古学の発掘遺物の積み重ねから実際の埴輪形態の変遷は違うことが明らかになっています。
つまり、最初の埴輪は円筒埴輪であり、粘土(埴)で紐を作ってそれを円状(輪)に積み上げて形を作っていくので、「埴輪」の名前が付いているのです。起源は弥生時代後期に中国地方(吉備など)で作られた特殊器台です。吉備で作られたと推定される特殊器台が3世紀中頃築造とされる箸墓で出土しており、さらに箸墓では円筒埴輪の初期のものも存在するので、大和盆地南東部で特殊器台→円筒埴輪に変化し成立したと考えられています。
その後、鳥形や家形などの形象埴輪が4世紀に出現し種類も増えていきますが、人物埴輪が現れるのは5世紀中頃とされています。垂仁天皇が実在したとして、その時代は4世紀前半なので、全く時代が異なります。野見宿禰伝承は、土師氏の職掌の根拠を分かりやすく顕彰するため後に作成された説話ということです。

【菅原東埴輪窯跡遺跡(菅原はにわ公園)】
当社から東に10分弱歩くと、住宅街ならどこにでもあるような小さな公園に着きます。これが1990年に発見されたという6基の窯跡遺跡で、各窯の位置表示や、そのうち一つの3号窯(公園前の道路近くから出土したものを、公園内の現位置に移設展示)については、金属格子で保護して窯内部の発掘状況を透明パネル越しに見学できるよう保存処置がされています。


埴輪窯自体は古墳時代後期の6世紀のもののようですが、登り窯の下部にあたる焚口に面する溝部(通路か)は古墳時代前期の4世紀のもので、ちょうど北方にある佐紀古墳群の御陵山古墳(日葉酢媛陵墓)・石塚山古墳(成務天皇陵墓)や、南方にある宝来山古墳(垂仁天皇陵墓)の築造時期に一致します。さらに、この窯群の西方には4世紀後半から5世紀前半の豪族居館とみられる遺構も検出されていて、これが土師氏の居館である可能性が考えられているのです。これら遺跡群が式内社・菅原神社とつながることは間違いないのでしょう。

【社殿、境内】
古めかしい風貌で色彩が残る本殿は、寛保年間(1741-44年)の再建によるもので、流造。昭和の時代は檜皮葺だったようですが、現在は銅板葺きのようです。向拝付きで正面に昇高欄と袖高欄をほどこし、前方に祝詞殿と拝殿が接続します。境内には、昭和の時代に建立された「筆塚」が存在感を放っていました。

【菅原の地名】
「菅原」の地名は、菅の原という意味による、スゲの自生する草原に因むもので、古きは平城京より以西、京外の丘陵地帯も含む広い地域の呼称であったと考えられます。「続日本紀」には、元明天皇が和銅元年(708年)を皮切りにたびたび菅原に行幸したすえに、菅原の民家90余家を他に遷させて布穀を賜ったとみえますが、これは平城京造営にあたり、その予定地にあった菅原の人家を遷させたことを表わしているようです。かつては平城京に含まれた場所だったのです。

(参考文献:菅原天満宮公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)














































