摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など、古代からの要衝である高槻市から史跡を巡って、諸説や伝承など多角的で多くの情報を取り上げたいと思っています

葛木御県神社(奈良県葛城市葛木) 大田田根子と葛城の関りからみる葛城の土神・剣根命

[ かつらぎのみあがたじんじゃ ]

 

「大和の六御県」でまだ参拝していなかった葛木御縣神社を訪れました。住宅街や学校の隙間にかろうじて鎮座している風ですが、そこに至るには下記するような変遷があったことに、改めて気の遠くなるような長い歴史をくぐりぬけてきた地域の信仰の強さを感じました。また、ご祭神の一柱、謎の神・剣根命が何者なのかについて大いにロマンをつのらせました。

 

こんな感じで鎮座します。☝見出し写真の入口は向こう側です

 

【ご祭神・ご由緒】

社伝では、ご祭神を邇邇芸命と天剣根命とします。ただし、神社に備え付けられた解説文(葛城市歴史博物館の神庭茂氏による。2023年12月付)によると、邇邇芸命一柱であり、剣根命については、葛城国造(葛城直氏。武内宿禰後裔の葛城氏とは別氏)の祖先とされることから結び付けられて、明治時代になって合祀されたと説明されています。

本来は、下記に記します大和の六御県の一つ・葛木御県に坐す神、御県の国魂神であったろう(「延喜式」祈年祭の「祝詞」には「御県に坐す皇神等」とある)と、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。創祀年代はご多分に漏れず明らかではありませんが、御県神社は大和のみで祀られている事、しかも朝廷にゆかりの深い六郡にのみ限られていることからも、創立は古いとみられます。木村氏は、おそらく飛鳥・藤原京時代にまで遡るだろうと考えておられました。

 

参道を進んでの境内

 

【大和の六御県】

大和の御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位、すなわち大王の直轄地のことだと言われています。「日本書紀」大化元年(645年)八月条に『其れ倭国の六県に遣さるる使者。戸籍を造り、幷て国畝を校ふべし』と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されていました。

 

高市郡 高市御県神社(名神大、月次新嘗) 

・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗) ☚当社

十市郡 十市御県坐神社(大、月次新嘗)

城上郡 志貴御県坐神社(大、月次新嘗)

山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)

添下郡 添御県坐神社(大、月次新嘗)

 

鳥居正面から

 

【神階等古代記録】

730年の「大倭国正税帳」は断簡で葛下郡を欠いているので当社の事は不明ですが、そこには添御県、志貴御県、十市御県、山辺御県の各社の名がみえることから、六御県社それぞれに大和国の神戸を有していたと考えられます。「新抄格勅符抄」に見える806年の牒によると、当社は備前国に封戸を授けられています。859年に神階が従五位下から従五位上に昇叙され、「延喜式」神名帳には『葛木御県神社 大。月次新嘗』と堂々の大社として登載されています。

 

社殿

 

【鎮座地の移動と飯豊女王陵墓】

天皇家や古代豪族の権威が平安時代を経て時代とともに失われるにつれて、国家が祭祀した神社の多くは衰微しましたが、当社もその例にもれず、八幡神社(武神)や天満神社(学問神)など時流にのった新興の神社におさえられた、と木村氏は古社の衰退経緯を説明されます。

そして江戸時代に鎮座地の変更があったことが「大和志料」にみえます。つまり、当社はそもそも桑海村にあったのを、永宝八(1680)年に領主の桑山氏の信仰する諸鍬・八幡二神を北花内村埴口陵(飯豊女王陵)の上に遷し祀ることになり、その際に当社を含めた近郊の十村の産土神をも同じところに鎮座させられたのです。その中で八幡神の祠を本社として、その他の神社は末社とされました。

 

拝殿

 

それが、幕末の元治元(1864)年に、現在でいう陵墓にあたる古墳を修造(文久の修陵)することになり、当社が式内社でも特に大社であるということが重視されて、他の諸社とは独立して再び故地に復祀されることになったのです。ただ、そのときすでに桑海村の旧地は西光寺の地蔵堂の一角を除いて人家が密集していたため、その西100mの現在地に遷座されました。

国立公文書館内閣文庫所蔵「山陵図」では、文久修陵前後の飯豊女王陵の様子が描かれた絵図が確認できて、前の「荒蕪図」では、前方部西南の角から延びる参道が有り、朱塗りの鳥居と八幡宮の社殿が確認できます。南側の一段下がった部分には、四棟の建物の屋根が木々の間から覗いており、神主と禰宜の居宅とみられています。

 

本殿。春日造

 

【葛城御県の設置と剣根命】

この南葛城地域は、古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀末)は葛城鴨氏、古墳中期(4世紀末~5世紀末)以降は葛城氏の勢力域と考えられています。当社の西方300mそこそのの所に、現在は屋敷山公園として整備されている屋敷山古墳(5世紀中頃の前方後円墳、墳丘長135m)があり、葛城氏の古墳とみられます。それが、ヤマト王権の直轄地になった経緯については、「日本書紀」の記述から研究者により検討がされています。

 

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そもそもの発端は、安康天皇を殺害した眉輪王をかくまった葛城円大臣が、雄略天皇に責められ、その贖罪の為に「葛城宅七区」を天皇に差し出したことにあります。その雄略天皇の時期に葛城氏は滅亡したとみられますが、天皇の没後は、葛城氏の血筋を引く飯豊女王(天皇とも。その伝承地が角刺神社)や顕宗・仁賢天皇の時代となり、これら大王クラスが基盤としたのが「葛城宅七区」であり、それが後に葛城御県に編成されていったとの説が有るのです(平林章人氏)。

このことが、「書紀」の推古天皇三十二年に、葛城氏と始祖・武内宿禰を同じくする蘇我馬子が推古天皇に対して、「葛城県」を祖先の地であるからと主張して返還を求めたことにつながるとみられます。対して推古天皇はこれを拒否しています。

 

屋敷山公園。屋敷山古墳の後円部先端部です。江戸初期は新庄藩の桑山氏が「陣屋」として使用

 

ただ、上記の経緯は理解できるものの、それでは「書紀」の神武天皇二年に『剣根を葛城国造とした』と書かれた事とどう繋がるのか、が気になります。剣根命の後裔は「新撰姓氏録」大和国神別に『葛木忌寸。高御魂命五世孫。剣根命之後也」と記される葛木氏で、これが県主や国造となった豪族であり、武内宿禰後裔の葛城氏とは全く別だからです。「先代旧事本紀」天孫本紀では、『葛城の土神剣根命』とその由緒の古さが強調されていたりもします。

 

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【剣根命後裔・荒田氏と大田田根子】

ここで、「姓氏録」和泉国神別で同じく剣根命の後とされる荒田直氏に注目したいです。大阪府堺市の陶荒田神社の社名にもなっている豪族で、この神社は大田田根子も祀られています。(大国主命の後の)大田田根子は三輪君と葛城鴨君の祖であり、大田田根子の孫の大鴨積命が葛城・御所市に祀ったのが鴨都波神社だとする由緒もあります。「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏は、『(剣根命後の)荒田直と大田田根子は大和葛城でも結びつく』と書かれています。そして、長柄神社の記事で記しましたように、考古学の発掘成果から葛城鴨氏は古墳時代前期(あるいはそれ以前も)から葛城地域に勢力を持っていた可能性が高い豪族と見ることができのです。

 

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陶荒田神社の鎮座地はその名前から分かるように、「書紀」で大田田根子が見つかったとする陶邑に関りますが、この「陶」は5世紀始めから盛んに製作される土器・須恵器を指すと見られています。一方、三輪山の祭祀遺跡でその須恵器が出土することから、和泉の陶邑にルーツを持つ三輪氏が、古墳時代中期(4世紀末から5世紀末)以降に三輪山に進出して三輪山の祭祀を行うようになったとみるのが、現在の定説らしいです。

 

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屋敷山古墳の後円部を登る

 

しかし、三輪氏・葛城鴨氏と剣根命後裔の葛木氏は、陶邑や大和葛城で結び付き、葛城鴨氏は古墳時代前期以前から大和南部に居住したとみられるのですから、これら豪族は少なくとも古墳時代前期から和泉地域を含んだ畿内南部で活動をしていたと思いたくなります(出雲伝承・口伝は、大田田根子は葛城鴨氏や磯城の三輪氏の分家と主張)。大和岩雄氏の、『須恵器生産の新しい技術は、葛城国造や鴨君などの仲介を得て、はじめて三輪の地に入ったという事実を(中略)大田田根子伝承は反映しているのであり、陶荒田神社も葛城鴨氏にかかわる荒田直らが陶邑に居住して、祀ったものなのであろう』という考えが理解しやすいです。

 

ということで遠回りしましたが、剣根命は葛城御県神社に直接つながらなくても、その鎮座した地域のそもそもの産土神であり、この神は出雲系の葛城鴨氏に近いかもしれない(高御魂命の後というのが引っ掛かりますが…)という、個人的な感想を持ちました。

 

後円部から前方部方向と思われますが、墳形ははっきりしません。絶景です

 

(参考文献:葛城氏歴史博物館説明書、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、、谷川健一編「日本の神々 大和・和泉」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

氷室神社(奈良県天理市福住町/奈良市春日野町) あてなる氷を凍らせるため山間幽谷の地に祀られた「氷室」の守護神

【福住社】

[ ひむろじんじゃ ]

 

今回は、奈良県天理市の市街から東方に少し入った大和高原、つまり旧都祁(ツゲ)郷の氷室神社を中心に、別日に訪れた奈良公園の氷室神社と併せて取り上げます。のどかな風景の福住社と超観光地の春日野社という好対照な両社ですが、やはり福住社での大木群による社叢の自然の迫力にはひととき暑さを忘れました。また、わが大阪の高槻市にも「氷室」「闘鶏(ツゲ)」地名がありますので、そちらも少し触れたいと思います。

 

【福住社】入口鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

現在、神社の掲示板に掲げられているご祭神は、闘鶏稲置大山主命、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、額田大中彦命、気吹戸主神、神屋盾比売命、大己貴神、水神大神の七柱ですが、「日本書紀」仁徳天皇六十二年条にみえる「氷室」の初見となる下記の話に登場する始めの三柱が主要な神様とみられます。

つまり、額田大中彦命がツゲ(当地)に猟に出かけた時に、何やら廬の形のものを見つけました。そこで、闘鶏稲置大山主をよんで問うと、『氷室です』と言います。皇子がさらに、『その蔵(おさ)めたようすはどんなか、また何に使うのか』と問うと、『土を掘ること一丈あまり、萱を以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りその上に置きます。夏を越しても消えません。暑い時に水酒にひたしてつかいます』とのこと。皇子がその氷を御所に奉られると、仁徳天皇は喜んで、以降、師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷をくばったと云うことです。

 

【福住社】参道はこんもりうす暗いです

【福住社】境内

 

「日本の神々 大和」で大矢良哲氏は、この闘鶏(都祁・都介)氷室の守護神をまつったのが当社だと説明されます。延喜の制では、式内社とは別に、氷室の風神九所(山城国五所、大和国一所、河内国一所、近江国一所、丹波国一所)の一つに数えられて朝廷から崇敬されていたのです。ただし、創祀の由来は明らかではありません。

 

【福住社】巨木群をバックにした拝殿

 

【祭祀関連氏族】

上記の氷室発見説話に登場する闘鶏氏は、允恭天皇二年条に、幼少期の忍坂大中姫への非礼を咎められる話にも登場し、当社鎮座地から南東方向に5キロ弱にある三陵墓古墳群(5世紀前半~後半)の築造氏族と推定されていますが、「日本古代氏族辞典」には項目がなく、実像に関する情報は少ないようです。「元要記」に、允恭天皇三年に三田宿禰が詔により社殿を創建し氷室の霊を祭ったと書かれるようですが、「氏族辞典」の三田氏の項には、首姓の任那系渡来系の三田首氏などしかみえず、当社鎮座地の闘鶏氏と関係なさそうです。

 

【福住社】本殿。千鳥破風付流造

 

【中世以降歴史】

中世には福住七郷の鎮守となり、福住氏が神主として奉仕していました。この福住氏は天文年間(1532~1555年)の宗職のとき、福住の東北隅に氷室城を構えるほど栄えていました。宗職は、筒井氏の家老などを務め、福住筒井とも呼ばれましたが、鎮守奉斎が滞ってきたため別の神主を雇い、1559年には嫡子宗永に神主職を譲渡し隠居しました。近世初頭になるとその福住氏も衰え、その祭祀は郷民の手に移ったようです。

 

【福住社】本殿

 

【都介氷室跡】

神社背後の室山東麓、福住中学校の体育館の裏くらいの位置にある、二個の縦穴が昔の氷室跡だとされています。標高約490m、氷室の長径は約10m、短径が約8mの楕円形で、深さが約2.5mの摺鉢状です。周囲は樹木に覆われて日光を遮るようになっているそうです。大きな遺跡名の看板が中学校のグラウンドの東側に立っています。

 

【福住社】境内社。左が三柱神社で右が二柱神社

 

【主水司に属した律令期の氷室】

律令制では、当地のような氷室は宮内省の主水(モイトリ)司の所管に属して、その長官すなわち主水正は、供御の水、粥や氷室のことを司っていて、官位は従六位の上階でした。氷室は、氷を凍らせるのに適当な山間幽谷の地で清潔な水の湧出するところに置かれ、そこに何カ所かの池(氷池)を造り、寒中、水を凍結して氷を製造しました。延喜主水式には古代の氷に関する規定が以下のように記されます。

 

【福住社】厳島神社、事比羅神社、金比羅神社

 

朝廷供御の氷室は、山城国に六ケ所(葛野郡徳岡、愛宕郡小野・来栖野・土坂・賢木原・石前)、大和国・河内国・近江国・丹波国にそれぞれ一カ所(山辺郡都介・讃良郡讃良・志賀郡竜花・桑田郡池辺)、合計十カ所に二十一の氷室がありました。そのうち『大和国山辺郡都介一所 六丁輸一駄』と見えるのが「闘鶏氷室」になります。さらに「延喜式」によれば、氷池は上記五か国に540カ所あり、うち30カ所が大和国にありました。なお、当社境内の池も茅荻(チススキ)池と呼ばれていて、氷池跡だとされています。

 

【福住社】都祁氷室跡の表示

 

清少納言は「枕草子」のなかで、『削り氷にあまづら入れて、あたらしき金鋺(かなまり。金属製わん)に入れたる』を『あてなるもの(上品なもの)』の一つだと書ています。「あまづら」は「甘葛」という葛(つる)葦を煎じた甘味料のことで、削り氷は今日の氷水になります。氷の用途は、飲食用のほかは、死者の遺骸の保存にも重要な役割を果たしました。天皇家では「殯(モガリ)」と称して死者を数か月から一年以上も保存することがありましたが、その際の必需品だったのです。

 

【春日野社】入口鳥居。観光客が多いです

 

【奈良市春日野の氷室神社】

奈良公園内の奈良市春日野にも氷室神社があり、こちらは闘鶏稲置大山主命、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、額田大中彦命の三柱が祀られています。「元要記」や社伝によると、平城遷都に伴って氷室を春日の三笠山(若草山)麓の吉城川上に作り、710年7月22日に氷室明神を三笠山の下津岩根宮に祀ったとされます。この氷室を高橋氷室と称したことから、「大和志料」などから「延喜式」神名帳の高橋神社とみる説が出ています。

「元要記」によると、860年に瑞相によって三所の宮柱を鎮座し、1217年に宮柱を造営、現在地へ遷座したとのことです。「大乗院寺社雑事記」1471年の条には、大鳥居と東西一町の瑞垣を新造したと記されます。現在の表門・東西廊は、修理棟札から1642年に造営したことが分かります。本殿は文久年間(1861~64年)に造替されたものです。

 

【春日野社】四脚門

【春日野社】門をくぐるとすぐ拝所です

 

吉城川の氷室は、756年の東大寺山堺四至図(正倉院蔵)では付近に「氷池」「神地」が記され、「興福寺流記」所収の「天平記」では、興福寺の寺域東限が氷室の西垣にあたるとされています。「奈良坊目拙解」(1735年)には、氷室の旧跡は若草山と春日大社の間を流れる水谷川の「月日の磐」あたりだと書かれていますが、現在も川中に日月を彫った岩が残っていると、大矢氏は「日本の神々」に書かれていました。

 

【春日野社】社殿

 

【高槻市の「氷室」「闘鶏」地名】

ここで話は変わりますが、わが大阪の高槻市にも闘鶏野神社」「闘鶏山古墳そして「氷室」地名が存在します。「日本歴史地名大系 大阪府」は、一説に上記「書紀」氷室所伝の「闘鶏」を、福住の氷室社周辺の「闘鶏」に比定する説があるが、高槻市の同地名から高槻市に比定するのが有力だと説明しています。しかし、闘鶏氏が高槻市(摂津国島上郡)に居住したという話は聞かれないように思いますし、福住の氷室社鎮座地に比定する考え方の方が有名でしょう。

 

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ところで、大阪市の坐摩神社について、旧鎮座地(行宮のある辺り、「難波津」推定地)の旧地名やその祭祀氏族名が都下(後に渡辺)だとされ、その地名・都下(闘鶏・都祁)野(ツゲノ・トガノ)は朝鮮半島東岸の「迎日県又の名ツゲ野」に由来するとの説があります(「三国遺事」)。ただし、奈良の闘鶏氏とは別氏とされ、なぜ同じ氏名なのかはわかりません。「書紀」欽明天皇二十三年に、摂津国三島郡埴廬(高槻市土室町と推定。氷室町に隣接)に住む新羅人の先祖が来日した所伝がみえることから、高槻のツゲは(来日した際に最初に着いただろう)難波津のツゲノに関係してそうな感じが、個人的にはします。

 

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【春日野社】本殿。三間の流造

一方の「氷室」については、高槻市内の式内社・三島鴨神社(論社二社)の存在や、「新撰姓氏録」摂津国神別で鴨氏が見ること、さらに字名に「鴨林」が存在したことより、かつて高槻市に鴨氏が居住したとみる考えがあります。そして、京都の鴨県主氏が主殿(トノモリ)という職掌を持ち、上賀茂神社周囲に存在した氷室の氷を宮廷に貢じる役割も受け持っていたことが注目されます。一方で、上記のように「延喜式」では、主水司という違う職掌が氷室を管理していて、さらに「延喜式」の摂津国には氷室は見られないものの、氷を扱うという同じ業務内容を鴨県主が行っていることに注目して、高槻市の氷室地名に鴨氏の存在を重ねる推測も存在するようです(「式内社調査報告」)。

 

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【春日野社】氷みくじを載せる氷。四脚門内に有ります

 

(参考文献:氷室神社掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「角川日本地名大辞典」、「日本歴史地名大系」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

 

長柄神社(奈良県御所市名柄) 葛城鴨氏と葛城長江襲津彦のつながりを偲ばせる姫の宮

[ ながらじんじゃ ]

 

葛城には古代からの有力神社が多くあり、以前にも訪れたことがありますが、今回は南河内方面から、葛城山と金剛山の間の水越峠を通って入りました。のどかな田舎道を走るのですが、大きなトラックも走るくらいのそれなりに幅のある道です。水越トンネルを過ぎて急激に山麓を下っていくと、まもなく当社に鎮座地にたどり着きました。

 

境内入口

 

【ご祭神・ご由緒】

境内の掲示に記される現在のご祭神は、下照姫命。高鴨神社の主祭神である味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)神の妹神で、出雲の国譲り説話の中で返り矢で命を落とした天稚彦命の妻ともされます。当社創祀の年代は明らかではありませんが、「日本書紀」天武天皇九(680)年九月九日条に『朝妻においでになった。大山位以下の者の馬を長柄杜でご覧になり、そこで騎射を行わせた』の「長柄杜」が当社だと考えられています。

 

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「日本の神々 大和」で木村芳一氏は、祭神の異説として高照姫も挙げておられます。こちらは近くの鴨都波神社一言主神社などで祭られる事代主神の妹神です。他の説としては、「神社覈録」は『祭神長柄首祖歟』と記し、「特選神名牒」も、『注進状に祭神不詳とあり、土人は姫の宮と云い、一説には下照姫ともあれど、姓氏録に長柄首天乃八重事代主神之後也とみえ、又長柄村にます一言主神社即事代主神同神なれば、此社の祭神は長柄首ノ祖八重事代主神ならんとぞ思わる』と記しています。

 

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木村氏は、諸説あって判然としないが、「新撰姓氏録」大和国神別の長柄首が祖神を祀ったのに始まり、後世、鎮座地や社格などから、一言主神社あるいは高鴨神社の姫宮と考えられるようになったのではなかろうか、とまとめておられました。

 

社殿

 

【鎮座地「長柄」】

境内掲示では、『長柄の地名は長江(ナガエ)が長柄(ナガエ)になり音読して長柄(ナガラ)になった。長江はゆるやかに長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状地に残った古語であるともいわれる』との地元の伝えを記しています。

「日本書紀」神武即位前紀己未年辛亥条にみえる『臍見(ホソミ)長柄丘岬』は当地にあたるとされ、「古事記」孝元天皇段にみえる『葛城長江曾都毘古は玉手臣、的臣らの祖』とある葛城長江を葛城の長柄とする説もあります。木村氏は、これらの正否はともかく、当社の西隣にある龍正寺の優れた仏像や、近くの中村邸(重要文化財)などから、長柄が中・近世を通じても葛城東麓の要衝として繁栄したことがわかる、と書かれています。

 

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なお、大阪市平野区長江に鎮座する志紀長𠮷神社の記事では、「長江」は志紀長𠮷社鎮座地「長吉」のことであり、「古事記」執筆時には、葛城襲津彦がこの長吉の地にゆかりがあったと思われていたかもしれない、との説を紹介しました。志紀長江社自身も、「長江」とは住吉の墨江・大和川を意味し、襲津彦は本拠の葛城の地から大和川に沿って大阪平野に進出したとの地域信仰を語っています。長「江」なのだから、川の事だとする大阪説が理解しやすいですが・・・

 

拝殿。燈篭には「長柄神社」と刻まれます

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

「日本古代氏族辞典」の長柄氏の項でも、当社の鎮座地を本拠とし、この神社を奉斎した氏族だと説明されています。姓は首です。上記した通り、「新撰姓氏録」大和国神別に『長柄首。天乃八重事代主神之後也』と見えますが、一族の氏人名は未詳です。同じく上記した神武紀の記載からは、この氏族が天武朝の改姓以前からのものであったことをうかがわせる、とも「氏族辞典」は書いています。

 

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「和州五郡神社神名帳大略注解」には、雲梯神社(現河俣神社条に『神名帳云、大和国高市郡高市御県坐鴨事代主神社、在雲梯村神森』、『社家者長柄首』と、長柄氏は河俣神社の社家でもあったとあるようです。また別の話として、奈良県天理市長柄町にある白堤神社を奉斎した白堤氏にも同じ事代主神を祖神とする考えがあり、繋がりがあるとする見方も存在します(白堤氏については、忌部氏系とする説もあり)。

 

室町時代の本殿。春日造

 

【弥生時代の発掘遺跡】

当社の西方約400mの地点に、銅鐸と多紐細文鏡が出土した長柄遺跡があります。大正7年の工事中に水田下から発見されました。銅鐸はやや小型、外縁付紐式に分類される、だいたい紀元前4~前2世紀くらいの弥生時代前~中期のものです。一面に流水文を、他の面には斜格子文の横帯三条が鋳出されています。鏡の方は直径15.5センチで、鏡面の中心をはずれて紐が二つあり、細密な線で鋸歯文が描かれた、双紐鋸歯文鏡と呼ばれるものです。鏡は北方大陸系の紀元前4~前1世紀の鏡で、朝鮮半島から舶載されたと推定されていますが、福岡市の飯盛遺跡ものも含めて発見例が現時点全国で11例のみのとても珍しいものです。

 

本殿の庇の裏側「八方睨みの龍」。右側中央に頭が描かれます。なので、垂木がありません

 

【社殿・境内】

本殿は一間の春日造。掲示説明によると、十八枚の棟札も保存されていて、最古は正和元(1312)年の物があるようです。建築様式から見た建築年代は。嘉吉・長亨頃(室町時代中期)と推定されます。向拝に垂木がない珍しい造りで、その庇の裏板に雲龍の絵が描かれているのが見もので、どこから見ても睨まれているように見える「八方睨みの龍」です。さらに、境内入口の燈篭は、この地域出身の元官僚で有名作家の堺屋太一さんが奉納されたものです。

 

堺屋太一さん献納の石燈籠

 

【葛城鴨氏と葛城氏】

長柄首はその祖神伝承から、大国主命(その子が事代主命)後裔の葛城鴨氏とつながりが強い豪族だと理解してよいと思いますが、鴨系神社の分布するこの葛城地域と、古墳時代中期の中央豪族・葛城氏の拠点がほぼ重なります。そして、この地域で葛城氏の活躍の端緒となるのが、当社の東方1.5キロの所にある巨大前方後円墳・宮山古墳(5世紀前半、墳丘長238m、葛城襲津彦の墓とする説有り)です。古墳時代中期らしい長持形石棺や革綴短甲片と、前期を思わせる三角縁神獣鏡片が一緒に出土しています。

 

境内社と社叢

 

この宮山古墳以降とそれ以前の古墳時代前期では、この地域の古墳の規模に大きな差が有ります。前期古墳として確認されている古墳としては、直径50mの寺口和田古墳(4世紀後半・円墳)や一辺20mの鴨都波1号墳(4世紀中頃・方墳)くらいの規模になるのです。このことから、もともとこの地を治めていたのが鴨氏(鴨君)で、4世紀末のヤマト王権の内乱の時期(大和・柳本古墳群から、佐紀古墳群及び百舌鳥・古市古墳群へ勢力が移動する時期)に宮山古墳を築いた集団へ首長権が交代しただろうとする説がある事を、水谷千秋氏が「日本の古代豪族100」で紹介されています。つまり、鴨氏は古墳時代前期およびそれ以前からこの地に居住したと推定されているのです。鴨都波1号墳は小さいといえども、4面の三角縁神獣鏡や早い時期の革綴短甲が出土していて、副葬品には目を見張るとされていることも注目です。

 

境内は子供向けの公園にもなっています

 

三輪氏とともに、鴨氏の姓が「君」であることから、かつてはヤマト王権の大王家またはそれに準ずる権威をもっていた豪族との推測があります。崇神天皇以下三代を南大和に勢力を張った「三輪の大王家」と見る考えです(岡田精司氏)。とても魅力的な説ですが、この葛城南部に古墳時代の始まりとなる大古墳群である大和・柳本古墳群との関係を忍ばせるような、首長墓クラスの前期前方後円墳が存在しない事と符合しないように感じます。葛城鴨氏の謎は深いです。

 

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神社近くからの葛城山

 

(参考文献:長柄神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

都祁山口神社(奈良県天理市杣之内町/奈良市都祁小山戸町) 闘鶏国造が祭祀した『皇神等の敷き坐す山山の口』

【杣之内社】

【小山戸社】




[ つげやまぐちじんじゃ ]

 

式内社・都祁山口神社を称する神社は、天理市杣之内町と奈良市都祁小山戸町の二社が論社となっています。「日本の神々 大和」では、小山戸町の社を主対象としていますが、今回は別日に両社を参拝させていただきました。杣之内社は「道の駅 なら歴史芸術文化村」から歩いて行けて、手前の厳島神社の前を通ると近いです。小山戸社は大和高原の南の奥にあり、三陵墓古墳公園の駐車場から自転車で行きました。

 

【杣之内社】こんもりした社叢

【小山戸社】参道。一部境内の作業中でした

 

【ご祭神・ご由緒】

杣之内町社の境内には判読できる説明掲示が有りませんでしたが、小山戸町の社の掲示のご祭神は、大山祇神と大國主命とされています。式内社としての都祁山口神社の祭祀氏族は、多氏系の氏族である闘鶏(都祁)国造氏だと考えられています。多氏系とするのは、「古事記」神武天皇段に、神八井耳命が意富(多)臣や都祁直など多くの氏族の先祖と書かれるためです。

 

【杣之内社】境内は木々で囲われしずかな雰囲気です

【小山戸社】社殿向かって左側に池があります

 

【祭祀関連氏族】

当社は上記の通り闘鶏氏が祭祀した神社とみられます。「日本書紀」允恭天皇二年条に、皇后の忍坂大中姫が小さいころ闘鶏国造にからかわれ、姫が皇后になってからその咎により国造の姓を稲置に落とした話が載ります。さらに、それより前になる、仁徳天皇六十二年条に見える応神天皇の皇子・額田大中彦皇子が闘鶏に狩りに出かけて氷室を見つけた話では、闘鶏稲置大山主が登場し氷室のことを皇子に説明しています。氷室跡は天理市福住町が有名ですが、奈良盆地に対して東方の大和高原の台地にあるので、やはり場所的には小山戸町の都祁山口神社が闘鶏国造に近そうな感じはします。

なお、大阪の坐摩神社の祭祀氏族も都下(後、渡辺)氏とされ、その都下(闘鶏・都祁)は朝鮮半島東岸の「迎日県又の名ツゲ野」に由来するとの説があります(「三国遺事」)が、奈良の闘鶏氏とは別氏とされ、なぜ同じ氏名なのかはわかりません。

 

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【杣之内社】社殿

【小山戸社】社殿

 

貞観年間(859-877年)に、山辺郡司藤原時長の次男時忠が都祁直時麻呂の娘婿となって神主職を継ぎ、以降は藤原氏が神主になっています。その一族は小山戸殿と称されました。暦応年間(1338-42年)顕時のときに伊勢の北畠氏に仕えて北氏と改め、建武以降は紀氏に神職を譲ったようです。このように天文(1532-55年)頃までは神職についてのおよその記録があるようですが、当社そのものについては分からないということです。

 

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【山口神社について】

「延喜式」祈年祭の祝詞に『飛鳥、石村(磐余)、忍坂、長谷、畝火、耳無(耳成)』の山口神社六社が記され、皇室の舎殿の用材を切り出す六つの山々の神を祀ったのが山口神社です。さらに広瀬大忌祭の祝詞『皇神等の敷き坐す山山の口より、さくなだりに下したまふ水を、甘き水と受けて、天の下の公民の取り造れる奥つ御歳を、悪しき風荒き水に相はせたまはず・・・』にあるように、水の神、農業の神でもありました。

 

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「延喜式」には上記の六社のほか、夜支布、伊古麻、巨勢、鴨、當麻、大坂、吉野、そして当社・都祁の八社があり、十四社いずれもが大社になっています。しかし、祈年祭祝詞の六社がいずれも神戸を持っていたのに対し、他は当社都祁山口社を除いて神戸の記録がありません。当社は中でも重要視されていた神社ということかもしれません。

 

【杣之内社】拝殿

【小山戸社】拝殿。社殿は一段高くなります

 

【神階等古代記録】

730年の「大倭国正税帳」に『都祁神戸』と見え、既にそうそうたる古社群の一つとしてその名が記され、稲の累積貯蔵量と租稲量が記録されています。「新抄格勅符抄」の806年の牒に『都祁山口神一戸大和』と見えます。神階については、「文徳実録」の852年に官社に列せられ、「三代実録」859年に従五位下から正五位下に昇るとともに、風雨祈願の奉幣がありました。「延喜式」では臨時の祈雨祭神八十五座にも列せられています。

 

【杣之内社】本殿。一間の流造

【小山戸社】本殿。隅木の無い春日造

 

その後の沿革について、「式内社調査報告」で石崎正雄氏は、『「水分神社縁起」によれば、寛平三年(891年)高山の麓カモエ谷に遷し建てられた』とし、『以降興福寺の荘園経営により、都祁郷の中心は交通に便利な鞆田・南殿庄に移り、都祁氏の衰微と共に社運も衰えたと考えられ、わずかに水分社の祭礼の仮宮としてその伝統を維持した』と述べられています。小山戸町社がある地域の、現在の都祁友田町や都祁南之庄町の話と思われます。

 

【杣之内社】社殿前は小さなスペースです

【小山戸社】境内を社殿側より

 

【式内論社】

かつての神社考証書では、論社二社のどちらを支持するかで真っ二つに分かれています。「大日本史」「特選神名牒」「大和志料」「山辺郡誌」は小山戸社としますが、「大和志」「大和名所図会」「神社覈録」「神名帳考証」(伴信友、渡会延経)などは杣之内社(旧山口村)に比定しているのです。

 

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上記した石崎氏は「調査報告」で、『近時山口村を主張する説はない』としながらも、広瀬大忌祭での祝詞の『皇神等の敷き坐す山山の口より・・・』と云う場合の山の入口にあり、御県神(山辺御県坐神社)の周辺の此の地に鎮祭されてあっても不自然ではないと述べられていて、杣之内社が式内社である可能性が残ることを示唆されています。

 

【杣之内社】社名が刻印された石燈籠

【小山戸社】入口の前の「森神さん」

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「先代旧事本紀訓注」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 大和」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

山辺御県坐神社(奈良県天理市西井戸堂町) 「先代旧事本紀」の系譜にみえるご祭神と尾張氏に関する伝承

[ やまのべのみあがたにますじんじゃ ]

 

山邊御縣坐神社は式内論社が二社ありますが、当社はその一つです。西井戸町の集落の中、中ツ道沿いに東面して鎮座しています。布留川と初瀬川の合流近くで、「和名抄」の山辺郡長屋郷の中と推定されると、「日本の神々 大和」で小田基彦氏が書かれています。コインパーキングを使いましたが、少し距離が有ったので、しばし中ツ道を歩いて大和盆地の雰囲気を味わいました。

 

境内

 

【ご祭神・ご由緒】

現在、当社の掲示板で明記されているご祭神は、建麻利根(タケマリネ)命。

「延喜式」式内社としての山辺御県坐神社の祭神については、「神社明細帳」「神名帳考証」(伴信友・渡会延経)が、「先代旧事本紀」天孫本紀に山辺県主の祖と見える建麻利尼命とし、「特選神名牒」が「延喜式」祈年祭の祝詞から推測して豊宇気比売とし、「大和志料」「山辺郡誌」は山辺御県神だとしています。

西井戸堂の当社に関しては、「神社覈録」は祭神不詳としていますが、江戸時代に白山大権現と称していた事が、1607年の棟札や、石燈篭でわかるようです。また、「布留社古文書」にも『白山大権現両井戸堂村』と見えています。

 

拝殿

 

【大和の六御県】

大和の御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位、すなわち大王の直轄地のことだと言われています。「日本書紀」大化元年(645年)八月条に『其れ倭国の六県に遣さるる使者。戸籍を造り、幷て国畝を校ふべし』と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されていました。

 

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高市郡 高市御県神社(名神大、月次新嘗) 

葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗)

十市郡 十市御県坐神社(大、月次新嘗)

城上郡 志貴御県坐神社(大、月次新嘗)

・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)☚当社

添下郡 添御県坐神社(大、月次新嘗)

 

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【式内社に至るまでの記録と式内論社】

730年の「大倭国正税帳」に『山辺御県神戸』と見え、既にそうそうたる古社群の一つとしてその名が記され、稲の累積貯蔵量と租稲量が記録されています。「新抄格勅符抄」の806年の牒に神封二二戸とあります。さらに「三代実録」859年の条に、当時267社が神階を進められた中に、当社も従五位下から従五位上に進み、「延喜式」神名帳にも大社として登載されました。

しかし、その後の記録が無くなり、所在も不明になってしまい、現在は天理市別所町と同市西井戸堂町の二社が伝承地として、それぞれ式内論社とされています。具体的には、「大和志料」「山辺郡誌」が別所の社を推し、一方、「大和志」「大和名所図会」「神社覈録」などが西井戸堂の当社を支持しています。

 

社殿

 

以下、西井戸堂町の当社の事を記します。

 

【藤原道長の宿泊した「井外堂」と十一面観音立像】

「御堂関白記」に、藤原道長が金峰山詣でのために、1007年8月2日に京都を発ち、3日に大安寺、4日に井外堂、5日に軽寺に宿泊したと記されているのですが、『井外堂』が「井戸堂」のことだと、先の小田氏は述べておられます。つまり道長は中ツ道を通ったと推定され、井戸堂には当時著名な寺社があったと思われるとのことです。

上記した「布留社古文書」の方には、『中社氏神白山大権現一社、弁財天一社、拝殿一ケ所、観音堂一カ所両井戸堂立合、但十一面観音脇立二体、釣鐘堂一カ所、行者堂一カ所』とあります。この中の観音堂はもと長谷寺小池坊の末寺で植福山妙観音と号されていましたが、明治5年に廃寺となりました。しかし、観音堂の建物は残り、本尊十一面観音立像が厨子に安置されて、重要文化財の指定を受けています。この観音堂の下に井戸があるとされているのです。

十一面観音立像は、藤原時代(美術史上の時代区分のひとつ。遣唐使廃止以後、藤原氏が摂関政治を行った平安時代中期・後期をさす)の作といわれ、胎内には長さ210センチの一部焼損した木芯が納められています。白山権現が十一面観音の垂迹とされていて、本尊の製作年代からして、かなり古い時代に白山権現が勧請されたと想像され、道長の訪問の時には既に両社寺が並び立っていたと思われると、先の小田氏は書かれています。

 

本殿

 

【鎮座地地名と山辺御井】

当社を中心にして、西井戸堂町と東井戸堂町に小字「アカタ」、吉田町に「ミクリ」、合場町に「北田部」「南田部」、富堂に「屯倉」の小字が(80年代に)現存し、町名にも「田」「田井庄」「田部」などがありました。小田氏は、これらの地名が一円に存在することは、この一帯に山辺御県が存在したことを物語っているのであろう、と書かれています。

「井戸堂」の地名の起源となったとされるのは、上記した観音堂下の井戸ですが、境内地付近(隣接する西井戸堂町公民館前)や周辺に山辺御井の伝承を持つ井戸があることも、当社が古社であることを忍ばせます。

 

境内の石燈籠。右下の垣の外が山辺御井

 

【祭祀関連氏族】

「山辺」だけだと、「新撰姓氏録」右京皇別下に、『山辺公。和気朝臣同祖』、摂津国皇別に『山辺公。和気朝臣同祖。大鐸石和居命(鐸石別命)之後也』という、垂仁天皇の後裔氏族がいますが、ここは「山辺県主」ということなので、やはり現在もご祭神として祀られる建麻利根(尼)命に注目したくなります。

「先代旧事本紀」天孫本紀の天火明命(「旧事本紀」は、物部氏の祖神饒速日命と同一神であるかのような表現で「火明饒速日命」と表記します)に続く天香語山命から5世後に建麻利尼命が見え、これを石作連、桑内連、山辺県主等祖だと記します。兄弟には建田背(神服連・海部直等々の祖)、建多乎利(笛吹連等々の祖)がいるとされ、つまりは地方の大豪族・尾張氏系統に属する氏族となります。

 

観音堂。この中に井戸と十一面観音立像があるとのこと

 

【尾張氏と大和】

尾張氏については、海部氏がその別姓との伝承(熱田神宮縁起)がありますが、出自について大和葛城を発祥の地とするのか、地元尾張(愛知県)で自生した氏族なのかで議論が絶えないようです。特に後者では、愛知県の断夫山古墳の築造を画期として、6世紀以降に継体大王を支える勢力として大和入りしてきたという説もあります(加藤謙吉氏等)が、これだと記紀に考安天皇の母が尾張連の先祖奥津余曽(「旧事本紀」で『葛木彦』)の妹だとされたり、上記した建麻利尼命の「旧事本紀」上の説明と合わなくなり、悩ましくなります。

水谷千秋氏は「日本の古代豪族100」で、尾張氏の先祖・火明命が瓊瓊杵尊というきわめて尊貴な皇祖神の兄あるいは子とされている点は(伝承とはいえ)尾張氏の無視できない重要性を表わし、姓が「連」であることもきわめて異例で、尾張氏が大和本貫とする説が唱えられる背景にはこうしたこともあるだろう、と書かれています。

 

これまで大和の御県神社を取り上げた際、出雲伝承・口伝(と「海部氏勘注系図」)の主張を前提にしてみて、もしかしたら埋もれてしまったかもしれないそもそもの祭祀氏族を推測してきました。それが以下になります。

  • (氏族)   (一般説)       (伝承の主張)
  • 磯城県主   物部氏系      出雲系(九州勢力に攻められた)
  • 十市県主   磯城県主の後    同上
  • 添県主    中臣氏系      長髄彦(登美彦)→登美氏は出雲出身
  • 高市県主   天津彦根命後裔   ☚の後の天御影命は海部直氏の始祖

 

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山辺県主が尾張氏系であれば、一般的にも海部氏と関係すると理解されますから、以上5つの御県主に関しては、出雲・アマのそもそも日本海出身氏族に繋がりそう、との見え方になります。近年の考古学では、弥生時代後期は、九州とは別個に、出雲から丹後地域での鉄器流通が盛んで大和より活発だと説かれたり、古墳時代初頭期には山陰系土器が奈良盆地南東部の纏向遺跡や城島遺跡に現れると言われます。出雲や丹後の出身者が大和で活発だった時期があったのかもしれないです。

「古代海部氏の系図」で金久与一氏は、尾張氏の解説の最後に、『もとは丹後の海部氏が大和葛城の高尾張邑に移住し「高尾張」氏を名乗り四世紀ごろ尾張(東海地方)へ移動したものといえよう』との言葉で締められていました。文中の根拠説明は不十分ですが、海部氏系図を参照する際に交流した籠神社の海部宮司からの伝えではないかと、個人的には推測しています。

 

鐘楼

 

(参考文献:当社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「先代旧事本紀訓注」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

狭山神社(大阪府大阪狭山市半田) この地の中臣系豪族に偲ばれる鹿島神宮や記紀・狭山池伝承との関わり

[ さやまじんじゃ ]

 

「古事記」垂仁天皇記や「日本書紀」崇神天皇紀にその築造が記される狭山池の程近くに鎮座する、南河内の式内社です。狭山池は近年発掘調査が行われ、その古代にさかのぼる豊かな発掘成果と歴史が大阪府立狭山池博物館で見学することが出来ます。発掘で明らかになったことと記紀の記述を対比すると、古代この地にいた豪族が記紀の記述に影響力を持った可能性が偲ばれました。

 

石標のある所から少し手前の一の鳥居

【ご祭神】

現在のご祭神は、主祭神として天照大神と素戔嗚命。配祇神として、臣狭山命、天児屋根命、大山祇神、稲田姫命、印色入日子命が祀られています。こんなにご祭神が多いのは、明治時代終わりの合祀政策によるものです。「式内社調査報告」で伊勢戸佐一郎氏は、河内国丹比郡の式内社の中で天照大神を主祭神として祀るのはこの狭山神社のみであり、当社の重要性を知ることが出来ると書かれますが、古代の当社の姿を偲ばせるご祭神は、臣狭山命、天児屋根命、そして印色入日子命です。

 

参道

 

かつての考証書が述べるご祭神は、「神社覈録」が『姓氏録和泉国神別 狭山連は大中臣朝臣同祖天児屋根命之後也。考証伝、天児屋根命十七世孫臣狭山命』と書き、「河内国式神私考」は巨狭山命として『中臣氏系図、巨狭山命は中臣連遠祖國摩大鹿島命之児 河内狭山之地主之神也』と中臣氏との関係を明記します。「河内國式内社目録稿本」は「所祭狭山連祖神天児屋根命 俗称天照大神 進乃男神』として中臣系の地域氏族の関りを述べます。

 

一段高い位置の拝殿

 

【ご由緒】

一方、ご由緒としては、「大阪府全志」が『崇神天皇の勅に依りて創建せし所なりという』と述べて、「古事記」垂仁天皇記に近隣する狭山池が印色入日子命によって造営されたとする所伝との関連を思わせますが、当社との直接の関りが書かれているわけではありません。室町時代に当社が牛頭天王社と書された時期の「植田庄牛頭天王社記」が有りますが、そこにも崇神天皇による創建が記され、「日本書紀」に河内の狭山池の所伝があると述べます。

 

本殿は垣の中で見えづらいです

 

同じご由緒を持つ式内社に、現在は当社の境内社となっている狭山堤神社があります。明治40年の合祀によって境内社となりました。元の鎮座地は、明治12年の神社明細帳に依れば、『堺懸管下河内国丹南郡半田村字明神山』とありますが、伊勢戸氏は創建地を定める確証をつかみ得ないと書かれています。

 

境内社・狭山堤神社

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【祭祀氏族・神階・幣帛等】

当社は「倭名類聚抄」の河内国丹比郡狭山郷にあったとみられますが、丹比郡には中臣系氏族として菅生朝臣、中臣酒屋連、村山連、そして中臣高良比連の四氏がいたとみられます。そのうち、菅生朝臣は式内社菅生神社に関り、また中臣酒屋連は同じく式内社の酒屋神社に関わるとみられます。

そして、村山連について加藤謙吉氏は、天平二十年(745年)四月二五日付文書によると、河内国丹比郡狭山郷の住人に村山連浜足と村山連首麻呂が記されています。さらにもう一氏の中臣高良比連は、「新撰姓氏録」河内国神別に『津速魂命十三世孫臣狭山命之後也』と書かれ、「二所太神宮例文」によれば、神亀三年(726年)、伊勢大宮司に任ぜられた高良比連千上と後任の村山連豊家は異父兄弟とあります。加藤氏は、中臣高良比連の本拠地は不明だが、村山連一族と近接するところに居住していた可能性が高いと説明されます。

 

境内社・狭山戎社

 

上記した「河内國式内社目録稿本」が書いた狭山連については、「姓氏録」では和泉国神別に分類され、始祖として挙げるのは天児屋根命です。当社は和泉国との境近くに鎮座するので、狭山連が当社に関わる可能性は有りそうですが、当社が天照大神を祀っている事に重点を置くと、伊勢大宮司を務めたという村山連や中臣高良比連の関りも考えたくなります。

「三代実録」によると、狭山神社と狭山堤神社共に、859年に従五位上の神階を与えられています。「延喜式」神名帳では、二社共に堂々の大社です。

 

境内社・狭山稲荷社

 

【臣狭山命】

「松尾社家系図」には、中臣氏の祖とされる雷大臣(中臣鳥賊都連)からさかのぼる系譜として以下が見えます。これは「尊卑分脈」とも矛盾しないようです。

神聞勝命ー久志宇賀主命ー国摩大鹿島命ー巨(臣)狭山命ー雷大臣命

「常陸国風土記」香島郡条には、『俗曰』として、崇神朝に大坂山の頂に至現した鹿嶋神の神託の意味を天皇に奉答した人物として、大中臣神聞勝命の名を伝え、さらに倭武天皇(日本武尊)の時代に鹿嶋神が臣狭山命に、神の舟を管理して奉仕せよと宣した話がみえます。臣狭山命は、「続日本紀」781年条の栗原勝子公の言上に、伊賀都臣(雷大臣)の父とする意美佐夜麻と同一人物で、こうして奈良時代の公式記録にも登場します。

 

茅葺きの神器庫。今年屋根を修理したそうです

 

加藤氏は、神聞勝命、臣狭山命、大鹿島の三人はいずれも、8世紀の比較的早い段階で、すでに中臣・藤原氏の祖として扱われていたとみて間違いないと考えておられます。天児屋根命から臣狭山命の世代数が各系譜でほぼブレないからです。そしてこの事実が、常陸の鹿嶋社(鹿島神宮)の祭祀と関わる人物が、中央の中臣・藤原氏の祖先系譜において中心的な位置を占めていたことを意味し、中臣氏のウヂの組織内に鹿嶋社と関連する中臣氏が存在した可能性を示唆するとみるのです。つまり、「狭山」が鹿島神宮に関わるというお考えです。加藤氏は、中臣・藤原氏の出身母体が常陸周辺の卜部集団から昇格していった中臣一族だったとの説を取っておられます。

 

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【狭山池】龍神社の鳥居。池の中に祠が鎮座

 

【狭山池】

狭山池は我が国最古のダム式ため池湖とされる人口の池です。近年の発掘成果により堰き止める堤体の断面構造が明らかになり、最も下層の築造時の層は7世紀前半(616年前後)に造られたことが分かりました。堤の中に水を通すための飛鳥時代当時の樋管が出土し、年輪年代法でその管の年代が確定したのです。

 

【狭山池】龍神社の祠。祠の後ろの山が金剛山。その左の山が葛城山

 

築造後、731年に奈良時代の高僧行基が改修したという層も調査で確認されています。さらに「続日本紀」によると762年に決壊したので修造した記事が見えますが、その時に元の倍程度の高さまで大規模な盛土をしていたことも分かっています。これらは大阪府立狭山池博物館内の巨大な堤断面の移築展示(剥ぎ取りではない)で直に見ることができます。

 

’【狭山池】左側岸が池の堤防。その向こうに覗くのが狭山池博物館。二上山も見えます

 

【所感】

現在、狭山池の発掘成果によって築造時期が明らかになったことを踏まえると、記紀の崇神・垂仁紀の狭山池築造の所伝が潤色だった事が考古学的に明確になったと言わざるを得ません。そして、飛鳥時代の築造から100年も経っていないのに、さらに200年程度古い話(「書紀」の年代そのままだと500年以上!)にしてしまうとは、大胆な事をしたものだという感想になります。

 

境内

 

「書紀」の垂仁紀に天皇に従う五大夫の一人として、『中臣連の遠祖大鹿嶋』が登場します。この五大夫について、篠川賢氏は和同元年(708年)に任命された議政官の氏族構成と同じ(石上麻呂、藤原不比等、大伴安麻呂、小野(旧和爾)毛野、阿倍宿奈麻呂、中臣意美麻呂)なので、「書紀」のその記事は708年以降に作成されたことは間違いないと断定されます。確かに、少なくとも崇神・垂仁帝が想定される時代には「中臣」は存在しないはず(「新撰氏族本系帳」)です。となると、記紀両方に見える狭山池の記述も、常陸国に起源をもつこの地の中臣氏が働きかけて作成されたのでは、と思いたくなります。

ヤマトの王権~律令国家内で臣狭山命が中臣・藤原氏の系図に組み込まれたのが8世紀に入ってからとすると、当社のご祭神となるのはそれ以降であり、さらに印色入日子命のご由緒が語られるのはさらにもっと後の事だったのではないかと思えます。

 

社殿と社叢

 

(参考文献:狭山池博物館公式HP、篠川賢「物部氏」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 河内」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

若江鏡神社(大阪府東大阪市若江南町) 河内の式内社が「鏡」を名乗る謎と奈良県鏡作神社の伝承

[ わかえかがみじんじゃ ]

 

古代史や考古学において、「鏡」に関する謎やロマンは尽きることがありませんが、その「鏡」の名を持つ神社が大阪の東大阪市にあるということで、参拝させていただきました。明確な名前の割には祭祀氏族像が混迷していて謎だらけなようですが、そういう中で奈良県田原本町の鏡作社の伝承が思い出されました。

 

参道。立派な社叢

 

【ご祭神】

現在のご祭神は、大伊迦槌火明大神(大雷大神)、仲哀天皇、神功皇后の三柱です。当社は大雷大神について、『大雷(荒魂)と、火明命を尊んで称したもの』と説明されます。ただ、当社祭神については江戸時代から学者の議論があり、諸説存在します。

それらを挙げますと、渡会氏の「神名帳考証」では若彦靈命・大己貴命、「神社覈録」は不詳、「大日本神祇志」と「特選神名牒」は美濃国各務(カガミ)郡の神社と関連させて火明命と推定します。「大阪府志」「大阪府全志」は現在の三柱とし、「大阪府史蹟名勝天然記念物」は大伊迦槌神としています。この中で、明治時代以降の大阪府の地誌類の研究では雷神の大伊迦槌神を主神とする傾向があるものの、このように諸説が十分に一致しないのは、この神社を斎祭る氏族がはっきりしないことが原因だと、「式内社調査報告」で棚橋利光氏が書かれています。

 

境内

 

【祭祀関連氏族の諸説】

「調査報告」で棚橋氏は、祭祀氏族の検討として、まず「若江」を氏族名とみます。若江氏は百済から渡来した張氏の後裔氏族です。「日本古代氏族辞典」では若江郡の地名にもとづくとしていますが、「新撰姓氏録」では右京諸蕃に載る『若江造。出自後漢霊帝苗裔奈張安力也』です。棚橋氏は、同書の河内国の部分には見えず、古代の河内関係の文献にも若江氏が見えないことに留意され、一方、この地域で有力とされる氏族としては美努氏が知られることもあり、社名の「若江」は氏族でなく地名であると考えます。

 

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拝殿

 

「若江」が地名だとすると、「鏡」に注目することになります。この場合、美濃国各務(カガミ)郡各務郷を本拠とした各務(各牟)氏が浮かび上がります。渡来系氏族と考えられていて、壬申の乱を契機に有力化し、「三代実録」の866年には大領である各務吉男の名が見えます。棚橋氏によれば、「各務」が「鏡」に通じ、大和国の鏡作坐天照御魂神社に関わる鏡作氏との縁故があるとのことです。そして、「神宮雑例集」(鎌倉時代に、上代からの伊勢神宮の由緒・経営・行事などについて、朝廷の記録文書にもとづいて編述したもの)所引の「神宮記」に、天火明命の子の天香語山命が鏡作の遠祖だと書かれていることから、大和の鏡作社と同様に若江鏡社も天火明命を祀るという説に繋がるのです。しかし、鏡作氏が若江の地に居たとする根拠はどこにもないので、この説にもどれほど確実性があるかわからない、と棚橋氏は考えます。

 

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本殿。独特な三間社流造

 

補足として、棚橋氏は触れておられませんが、鏡作を名乗る氏族には、物部氏系も文献に見えます。つまり、「先代旧事本紀」天孫本紀に物部鍛冶師連公(清寧天皇の大連・目と兄弟)が鏡作小軽馬(女)連の祖だとするものです。上記した鏡作坐天照御魂神社の近隣には、物部氏系の穂積氏や阿刀氏が居住したとする指摘もあります。しかし、棚橋氏の検討では考慮されていませんでした。

 

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殿内は厳かです

 

【古代の神階記事】

「文徳実録」854年に『河内国大雷火明神従五位下』とある「大雷火明神」が当社若江鏡社のことなのかどうかに関しても論が分かれます。当社と見る説では、本殿前の雷神石(雷手形石)の伝承があることや、上記の「神宮雑例集」の始祖伝承に関連づけて考えられます。「特選神名牒」「大阪府全志」がこの説です。一方、神階記事にあるのは式外の別社だとみる向きもあり、「神社覈録」「大日本神祇志」「大阪府志」がこちらに説を取っています。

 

天照皇大神社

 

【祭神祭祀の経緯】

棚橋氏はさらに、地元での祭祀の経緯を検討します。そして、三柱の中で大伊迦槌神が取り上げられるようになったのが、「大阪府志」以降の事であり、地元でこの神を祀りだしたのは新しいとみます。それに対して、仲哀天皇と神功皇后の方が地元で古くから祀られていた祭神と言えるようです。明治7年の「河泉神社記」にも『所祭未詳、俗称足仲彦天皇、息長足皇后』と書かれ、明治の初めに二柱が祀られていたことが分かります。

 

塚本稲荷社

 

それでは、それ以前はどうかとなると、文書などの史料がないので判断できないようです。ただ、江戸末期再建の現在の神社本殿が、三間社流造とはいうものの、構造上は一間流造を連結したものであり、中の間は4面が壁になっていてご神体が祀られていない事から、そもそもは二柱だったと分かります。

実は、平安時代にこの地域には石清水八幡宮の若江荘が在り、鎌倉時代にもこの荘が存続していたと考えられています。なので、このころからこの二柱の八幡神が祀られたのではないかと考えられるようです。棚橋氏は、この仲哀天皇と神功皇后が古代から祀られていたとは考えられないが、中世のある時期からこの二柱が祀られてきたのではないかと思う、とまとめられていました。

 

熊野権現社

 

【社殿、境内】

本殿は、1828年の再建で、上記したように一間流造を連結した三間社流造です。中の間は4面壁で中に入れませんし階段も設けられていません。ただ、寸法上は中の間は両脇の間より広くなっていて、あたかも主神を祀るような形になっています。

本殿の横に鏡塚と呼ばれる場所がありますが、古墳だそうです。「式内社調査報告」では、森をなしていて地元の人は雷の森と云ってたと書かれていますが、現在は森にはなってませんでした。

 

八雲歓喜天社

 

【鏡作の伝承】

以前紹介しました、奈良県田原本町に鎮座する鏡作麻気神社の田原本町観光協会名義の掲示説明に、以下のように書かれていました。

『現在、大阪府の東大阪を中心とした小阪、今里、八尾では金属加工業が多いが、この金属加工の人々の先祖は、大和の田原本町付近だと伝えられ、田原本町にこれら小阪、今里、八尾の地名が共通する事と関係するかもしれない』

まず「八尾」は八尾市であり(田原本町の八尾はヤツオ)、当社の東大阪市若江南町の南側に境界を接しています。そして、東大阪市内に「小阪」を持つ町名がいくつかあり、若江南町のすぐ西側に集まっています。また、「今里」は現在では大阪市内の地名になりますが、東大阪市内に「今里」の名を持つ会社が複数存在し、中には金型製作の会社も有ります(旧地名のことは未調査・不明です)。

 

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鏡塚

 

【ヤマト王権の生駒山越え】

当社は御野縣主神社から3キロ弱と近く、心合寺山古墳(5世紀前半)もまあまあ近いと言えるでしょう。さらに生駒山を越えて東方向に見ると、平群地区に竹林寺古墳(4世紀後半)、奈良西部に富雄丸山古墳(4世紀後半)、そして宝来山古墳(4世紀中頃~後半)が存在します。これら古墳は、大和から河内に通じる生駒山越えの交通路をヤマト王権が掌握し誇示するために築造された可能性を指摘する声があります。

もし、そういう動きがあったとすれば、その時に大阪平野に移住してきた鏡作に関わる工人が活動拠点に残した祭祀場の痕跡が当社につながったと思いたくなります。4世紀から国内でも本格的に鏡製作が行われますが、銅鐸と違って古墳時代に入ってからの三角縁神獣鏡の鋳型が見つかっていないことは、青銅鏡の分配がヤマト王権の特権事項であったろう事と関係しそうですし、当社の祭祀氏族が本当におぼろげなのも、そのような事情と重なりそうな感じがします。ともかく、古代においてはとても重要な鏡作の現場の聖地だったと思いたいところです。というのも、河内には物部氏と尾張氏(祖神は天火明命)が居ましたので。

 

 

(参考文献:若江鏡神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、「先代旧事本紀訓注」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

国中神社(大阪府四條畷市清滝中町) 朝鮮渡来系の馬飼の地で国常立尊が祀られる不思議

[ くになかじんじゃ/くなかじんじゃ ]

 

現在は四條畷市と奈良県の生駒市をつなぐ幹線道路である国道163号線~旧清滝街道沿いにひっそりと鎮座する式内社・國中神社です。現存する古墳が少ないのですが、この辺りは古墳時代中期に馬の飼育が本格的に始まった地であり、そのあたりとの関連を偲ぶために参拝させていただきました。

 

入口前の様子。左の谷を流れるのが清滝川

 

【ご祭神】

現在の当社掲示によると、国常立尊(クニトコタチノミコト)を筆頭に、1918年に逢坂村の大上宮神社より合祀された天照皇大神と猿田彦大神、1850年頃に境内若宮社から合祀された菅原道真公の四柱が祀られています。このように記される経緯を、「式内社調査報告」「日本の神々 河内」で田村利久氏が書かれています。まず、明治12年の「大阪府神社明細帳」には、国常立尊は記されていませんでした。さらに、天照皇大神と猿田彦大神は合祀された時期が大正6年であり、そうなると元々菅原道真公だけだとなり、「延喜式」式内社の祭神としては難があります。

 

一の鳥居

 

【氏子総代の祭神訂正願】

上記に対して、大正10年に氏子総代の社掌から祭神の誤謬訂正願が理由書を添えて神社本庁に提出されました。その趣旨を以下に記します。

『創立年歴及び由緒は明らかでないが、往古よりこの地に鎮座しており、国常立尊を祀っていた。それ以外に若宮社に菅原道真公を祭祀していたことも古文書伝説から確かである。然るに今日、壱百有余年前に若宮社社殿が破損したことで、菅原道真公を本社相殿へ遷したことにより、祭神に誤謬を生じ、国常立尊なる天神宮を菅公の天満宮と同一視して区別を誤った。また、一面に於いて当社は式内の最も古い神社なので、祭神を明らかに示せば神威を損なうとの浅考から、殊更に祭神不詳等隠蔽したと想像される』

という説明がされています。そして後の「神社本庁明細帳」では、四柱の神が記載されるようになるのです。

 

境内

 

【祭祀関連氏族】

律令時代に入ると、白鳳時代のものとみられる布目・縄目の古瓦を出土した正法寺が当社に接して建立されました。現在は「旧正法寺跡」として遺構地が保存されていますが、この寺は新羅系渡来氏族の宇奴氏の氏寺とされています。この豪族は、「新撰姓氏録」未定雑姓や河内国に『宇奴連。新羅皇子金庭興之後也』とあり、また「日本書紀」欽明紀23年7月にみえる、本国に帰らず日本に留まった『河内国更荒(サララ)郡鸕鷀野邑(ウノノサト)新羅人』との関連が注目されると、「日本古代氏族辞典」に書かれています。

同じく宇奴を名乗る豪族には「姓氏録」河内国諸蕃に『宇奴造。百済国人弥那子富意弥之後也』とみえる宇奴造氏や、「石清水宮放生会事条所引旧記」に宇佐大神を奉請して隼人の征伐を行った宇奴首男人がみえる、同じく百済系の宇奴首氏もいます。

 

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拝殿

 

一方、『更荒(讃良)』の郡名に注目すると、この名を氏名とする豪族としては、百済系の佐良々(サララ)氏がおり、「姓氏録」河内国諸蕃に『佐良々連。出自百済国人久米都彦也』とみえています。さらに、「書紀」天武天皇十二年に連姓を賜った十四氏のうちに婆羅羅馬飼造という豪族がみえますが、その氏は「日本霊異記」に見える更荒郡馬甘里を本拠とした馬飼部の伴造氏族と考えられ、佐良々氏と同族か、と「日本古代氏族辞典」は述べています。

田村氏は、上記した朝鮮半島からの渡来人はこの地の開拓者であり、当社も含めて近隣の式内社のかなりの部分は、そうした渡来系集団と関わるように思われる、とまとめておられました。

 

社殿。2000年に改修

 

【北河内の牧遺跡】

「書紀」応神天皇十五年に、百済王が阿直伎を倭国に派遣し、良馬二頭を献上し飼育させたとする所伝があり、応神朝以降に相当するとみられる5世紀前半に、百済の関与によって倭国で本格的な馬生産が始まると考えられています。

この頃に上町台地北端での難波堀江が開かれますが、同じ時期に蔀屋北遺跡などの河内湖北岸に位置した遺跡群も成立したとみられています。その蔀屋北遺跡や讃良郡条理遺跡を含む北河内の一帯に、馬を飼育するための広大な「牧」が広がっていたと考えられており、当社鎮座地もその領域に含まれるのです。遺跡には百済から持ち込まれた多量の土器や竈を壁際に造りつけた竪穴住居が見つかっていて、百済からの渡来人によって馬の飼育方法が伝えられたことが考古学的にも確認されています。

 

本殿

 

蔀屋北遺跡では馬具の他、馬を埋葬した墓穴が見つかっていて、馬骨の残り方が良好だったことから、全身骨格が完全な形で出土した唯一の事例となっています。それによると当時の日本の馬は体高が124センチの中型馬で、サラブレッドの体高160センチとはだいぶ見かけが異なるようです。同じく牧地域に含まれる忍ケ丘駅前遺跡からはかわいらしい子馬形埴輪も出土しています。

 

三神社・両宮社・吉備社・祇園社・稲荷社が、一つの祠に祭られます

 

【北河内の古墳】

上記の牧が成立する5世紀前半の時期には、この北河内には首長墓と言えるような前方後円墳は築造されなくなります。しかし、古墳時代後期に入る5世紀後半になると、墓の堂古墳(墳丘長70m)を皮切りに数基ほどの前方後円墳が築造されていきます。これらは蔀屋北遺跡から見上げる山麓部(讃良川や清滝川沿い)に立地することから、「淀川流域の古墳時代」で下垣仁志氏は、牧などの手工業生産地と密接に関係するかたちで有力墳が唐突に復活する、と説明されています。

一方、4世紀までの古墳時代前期では、讃良川や清滝川沿いにはほとんど首長墓級の前方後円墳が見られないのですが、ゼロでありません。それが、現在忍陵神社が鎮座する忍岡(忍ケ丘)古墳(4世紀中頃。墳丘長87m)です。また、弥生時代末期後半~古墳時代前期初頭には、忍岡古墳の至近に広がる小路遺跡から前方後方周溝墓や数十基の方形周溝墓が見つかっています。「日本の神々」で田村氏は、『現在は開発されて住宅地となったが、かつては前期古墳もいくつか存在した』と書かれていますが、「淀川流域の古墳時代」で下垣氏が前期古墳・遺跡として挙げられているのは、上記のみです。ただ、渡来人が入ってくる前に先住民が存在したことは確かなのでしょう。

 

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道真公ゆかりの神牛像

 

【大蛇宮】

当社は別名「大蛇宮」とも呼ばれたとのこと。神社の境内地や社前の道を死人などの不浄の通ることが忌諱されていたにも拘らず、近世に大和郡山の藩士が、武士という権限を笠にきて縁者の葬礼の列を通そうとしたところ、社殿に近くから大蛇があらわれ、一行の通行を妨げたことに由来するそうです。実際に何があったのでしょうか?

当社は東高野街道に沿う旧甲可(コウカ)村(百済系の鹿深(カフカ)臣に通じる説もあり)より清滝街道を500メートルほど登ったところに鎮座します。当社の古記録が「天神宮旧記」であることから、近世を通じて「天神」と呼称されていたとみられます。その記録に、1790年に宮廷の高官から懸額寄付を受けていたことが記されていて、宮廷の崇敬が篤かったことが偲ばれます。

 

生駒山系の清滝街道に国道163号線が通ります

 

【国常立尊】

「書紀」では国常立尊、「古事記」では国之常立尊と表記される神は、「古事記」では神世七代の最初に現れる神で、大地が定まったことであり、単独神で身の形を隠していると説明されていますが、その意味については諸説あります。神世七代については、伊耶那岐神・伊耶那美神の誕生を到達点として、それに到る過程を神々の生成によって発展的に表現したものとして捉える解釈が多いそうです。

しかし、当社がなぜ国常立尊に関わるのかの経緯は、上記したことからはよく分かりません。ただ、「天神」とは呼ばれていた記録があり、また、菅原道真公を祀る古社が古くは天神を祀っていたとする例(「天神」繋がりで民間信仰の中で道真公が結び付けられた。天満神社綱敷天満神社等)が他にもあるので、そもそもが天神(として国常立尊が選ばれ)が祀られていたということでしょうか。天神は天津神であり、「天降る」という表現に、大陸・朝鮮半島から渡来する(「海降る」)という解釈を採用すれば、渡来人の活躍した地にふさわしくみえてきます。

一方で国常立尊は、丹波亀岡市の出雲大神宮のご神体山に宿るとされる神とされ、出雲大神宮のしおりでは、富士浅間神社に伝わる「宮下文書」に見える話として、太古に国常立尊が天降り、桑田の宮(出雲の宮)を築いてこの地を統治した後、田羽山(出雲御神体山≒御蔭山と思われる)に葬られました。そして出雲毘女皇らによってその御神体山の麓の祠に祀られたとする等の記述から、出雲大神宮が古来より出雲の大神と崇められていた、という見解が述べられています。こちらを見ると、古墳時代の渡来人が入る前の先住勢力の神?との思いにもなり、悩ましいところです。

 

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当社境内南側から大阪市内を望む

 

(参考文献:国中神社境内掲示、國學院大学「神名データベース」、広瀬和雄・梅本康広編「淀川流域の古墳時代」、狭山池博物館「古代河内湖沿岸の地域開発と水運」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 河内」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町) 天武天皇が篤い信仰を寄せた宇迦之御魂神

[ ひろせたいしゃ ]

 

当社広瀬大社の石標や周囲の社名掲示には「廣瀬神社」とありますが、公式ホームページには「廣瀬大社」となっています。廣瀬社・龍田社となると、兎にも角にも天武天皇が祭られた国家祭祀の神社というイメージですが、ご祭神の説明のされ方に天武天皇の即位前のお名前である「大海人皇子」の命名経緯が重なり、当社のそもそもの姿にいろいろ思いが巡りました。

 

長い参道が続きます

 

【ご祭神・ご由緒】

当社の主神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)、相殿に櫛玉命と穂雷命を祀ります。「延喜式」神名帳に『広瀬坐和加宇加売命神社 名神大』と見えており、神社名で当時のご祭神が分かる稀な神社です。文献上の初出は、「日本書紀」天武天皇四年(675年)の条で、『小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣して、風神を龍田の立野に祀らしむ。小錦中間人連大蓋・大山中曾禰連韓犬を遣して、大忌神を広瀬の河曲に祀らしむ』の所伝。ここでの「大忌神」が「若宇加能売命」に相当します。天武天皇十三年七月四日条には、天武天皇が当社に自ら行幸したとも記されます。

 

参道途中に境内社が鎮座。こちらは日の丸大明神、お稲荷さんです

 

一方、社伝では、崇神天皇9年に、広瀬の河合の里長に信託があり、沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えたといいます。そして、このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになったというものです。「書紀」で崇神9年というと、天皇の夢の中の神人の教えの通り、墨坂の神と大坂の神を祀った話がみえるのみですが、この大坂の神になぞらえたのでしょうか。

 

日吉社

 

【広瀬大忌神の同一神】

「書紀」天武天皇四年の所伝は、龍田の神、広瀬の神を農業守護神として国家的に祀る「風鎮祭」「大忌祭」の初見となると、「日本の神々 大和」に大矢良哲氏が書かれます。この年以降ほぼ毎年広瀬・龍田の祭祀の記事があり(天武八年から龍田・広瀬 → 広瀬・龍田の記載順になる)、天武天皇在位中に19回、持統天皇時代にも16回の遣使奉幣があったと記されます。以降、神祇令にも明記される常例の祭となり、「延喜式」にも四月と七月に大忌祭と風鎮祭が行われる事が載ります。

 

祖霊社

 

その神祇令によると、風神祭(龍田社)が風水の害なきを祈る祭なのに対し、大忌祭は山谷の水が甘水となって水田をうるおし、五穀を稔らせることを祈る祭です。そして、大忌命は、「書紀」一書の六に『吹き撥ふ気、神と為る、号を級長戸辺命と曰ふ。亦は級長津彦命と曰ふ。是風神也。又、飢ませる時、生みませる児倉稲魂(ウカノミタマ)命と号す』とある倉稲魂(宇迦之御魂)命のことと考えられています。倉稲魂命は、稲霊の神格化された神で、後のお稲荷さんの事です。「延喜式」の大殿祭の祝詞にも、『豊宇気姫命は、是れ、稲霊なり。俗に宇賀能美多麻と謂う』とあります。

つまり、平安時代の時点で、若宇加能売命=大忌神=倉稲魂命=豊宇気姫命(豊受大神・伊勢神宮外宮祭神)という関係があったことが、オフィシャルな文献からみえるのです。

 

祓戸社

 

【神階等古代記録】

「延喜式」の臨時祭の記事には、祈雨神祭が見え、その八十五社の中に大倭社・大神社・石上社などと共に広瀬社一座があげられています。「三代実録」878年には、広瀬・龍田両社に神宝を納める倉を一宇ずつ造立したと書かれますが、現存しません。神戸については、「大倭国正税帳」に『広瀬神戸、稲10束、祖10束、合20束』とみえ、「新抄格勅符抄」に『広瀬川合神二戸大和』とあります。神階は、822年に従六位上から従五位下になっています。

 

ようやく二の鳥居

 

【中世以降歴史】

当社には「河相宮縁起」が伝わります。北葛城郡の百済寺の僧学弁が記したものを1522年に書写、江戸時代前期に公文良円が再び書写したものです。最初の書写は1506年の沢蔵軒の兵火によって全社域を焼失した17年後のことで、この事件と当縁起の書写との深い因縁が推測されると、先の大矢氏は書かれます。1719年の「新編広瀬神社記略抄」に焼失前の様子が描かれた古絵図があり、室町時代中期以前の姿が窺えるようです。

 

拝殿。平成にも天皇の幣帛を受けています

 

その後、社殿が復興したのが1546年、公文実仙によってなされました。その後の棟札が八枚残っていて、1627年の棟札の新造以降に二度目の縁起の書写がされたとみられます。現在に残る最古の建物は、1711年造営の春日造の本殿で、この年の正徳元年の棟札も残っています。

なお、縁起には舒明天皇の時代に池辺探則が大明神を拝してから、その子孫が代々神主になったこと等が記されています。

 

拝殿上。ここでも「砂かけ祭 殿上の儀」が行われます

 

【境内・鎮座地周辺】

当社の西に、不毛田川を隔てて定林寺というお寺があります。お寺の宝物には藤原時代の木造十一面観音立像や木造地蔵菩薩立像などがあります。ただし、江戸時代初期は当寺は定林寺でなく神宮寺だったことが、その頃の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」からわかるようです。その図によると、もともとの定林寺は現在地から当南方に描かれていて、一の鳥居の外に定林寺、一の鳥居と二の鳥居の間に神宮寺、その神宮寺の西方には安隆寺が描かれていて、神社を中心とした神仏習合の関係があったとみられます。

 

社殿

 

【砂かけ祭】

当社で「大和の奇祭」などとも云われる特殊神事が、「砂かけ祭(御田植祭)」で、2月11日に行われます。拝殿で行う「殿上の儀」と、拝殿前で行う「庭上の儀」の二部構成で、基本的に同じ作法が二度おこなわれます。とくに「庭上の儀」は、拝殿前に青竹を四本立てて注連縄を張り、その内側を田に見立て、牛役と共に田人が出て模型の鋤で雨粒に見立てた砂をかけ合うと、参詣の群集が手に手に砂をつかんで田人・牛に投げつけ、田人と牛はこれをかわしたり、群集の中に突進したりして暴れまわるのです。そのあと早乙女二人が出て田植えを行って、終了となります。河合町のマスコットキャラクターはこの田人がモチーフになっているようです。

 

拝殿と本殿の間。大社らしく広々と苔むしています

 

【大海人皇子を壬生した凡海宿禰】

天武天皇の即位前の名である大海人皇子は、天皇が崩御した後の殯の儀式で、大(凡)海(オオシアマ)宿禰蒭蒲(アラカマ)が、壬生のこと(養育した幼時のこと)を誄(しのびごと)したことから、凡海にちなんで名づけられたと推測されています。凡海氏は海部を管掌する伴造氏族と考えられていて、穂高見命の後となる安曇氏系と火明命系があるとみられています。いずれにしても、海人族関係と捉えられます。出雲伝承・口伝では、阿曇氏だとか、住吉大社の津守氏が養育したとの話があり一定しませんが、基本は一般説と同じです。

 

本殿。春日造、檜皮葺

 

そんな天武天皇や妻の持統天皇が繰り返し当社(と龍田大社)で祭事をしたり、行幸までしたと「書紀」に記載されるのは、当社に対して、養育してくれた家系への個人的な思い入れが重なったのではないかと感じられます。そして、当社のご祭神は倉稲魂(宇迦之御魂)命や豊受大神と同じとされるのです。「海部」となると、海部直が奉斎した丹後の元伊勢籠神社を見たくなりますが、そこでは奥宮の主神に豊受大神を祀り、伊勢神宮外宮の故地として「元伊勢」を掲げます。現在の籠神社は倉稲魂との関係を明言されていませんが、五穀豊穣の御神徳をもち関連が偲ばれます。そして、出雲伝承では、海部氏は古くは倉稲魂信仰を持っていたと主張するのです。

 

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本殿。河合町無形民俗文化財

 

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こうして眺めると、近隣の糸井神社比売久波神社でも偲ばれた、河内方面から大和に進出して来て天理の大和神社の地で勢力を持ったと想像される海人族⇒大倭直との関係が、そもそもの広瀬大社にもあったのではないかと期待したくなります。つまり、4世紀後半から5世紀始めの頃、河内王朝への王朝交代があったかはともかくとして、倭の五王の勢力の朝鮮半島進出に協力した海人族系が、渡来人を連れて大和に進出し、この大和川が合流する重要地点にも拠点を持った事の名残が、これらの三社として残っただろうとのロマンを持ちます。

 

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境内

(参考文献:廣瀬大社公式HP・境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、森下惠介「大和の古墳を歩く」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

高石神社(大阪府高石市高師浜) 越後国との繋がりも説かれるコシ氏が関わる天神の宮

[ たかいしじんじゃ/たかしじんじゃ ]

 

以前、淡路神社の記事で大園遺跡(大複合遺跡で、古墳時代の掘立柱建物群や漁撈具の出土が有名)を取り上げましたが、その遺跡から北、約1キロほどの所にある神社です。南海電車の高師浜駅から近く、神社の北方には大きな浜寺公園も広がりますが、海沿いといってもその先には工業地帯の埋め立て地が広がっているのが現状です。

 

街中にあって広い社叢を誇ります

 

【諸書の語るご祭神・ご由緒】

現在祀られているご祭神は、少彦名命、天照大神、熊野坐三柱とされます。しかし、「和泉國式内社目六稿」では『所祭未詳、俗称少彦名命』と記され、明治12年の神社明細帳では、少彦名命、天照皇大神、伊邪那美命とされています。

さらに、「大阪府史蹟名勝天然記念物」では祭祀氏族にも触れ、『古来祭神明瞭を欠きたるものの如く、(略)皆不詳とせり。今は少彦名命、天照大神、伊邪那美尊を祀るという。当社が古書に王仁を祀るというは、高石連の祖が王仁の後なり、といえる新撰姓氏録に基づきしなり』とあり、「和泉国名所図会」には『延喜式内社にして、高志の祖王仁を祭る、今天神と称す』と、様々な祭神説があり混然としています。

 

参道。松が多い感じです

 

【社伝による説明】

一方、当社の社伝には、祭祀の歳月は確かではないものの、白雉元年とも云われること、「延喜式」神名帳に大鳥郡の小社として載り、堀河天皇の御世寛治年間(1087~1095年)に社殿の再建があり、今は天神と称す(式社考)こと、そして社殿は寛永12年(1635年)にも再建されたものの、昭和9年の室戸台風で被災し、同11年の竣工したことなどが記されています。

白雉元年の創建や寛治年間の再建の記述は興味深いですが、「式内社調査報告」で二宮正彦氏は、これらについては未詳としています。

 

境内

 

【祭祀関連氏族に関する議論】

「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏は、当社は百済系渡来人西文(カワチノフミ)氏の分派が住みついて高志(コシまたは、タカシ)と称し、その祖王仁を氏神として祀ったものであろう、と書かれています。高志は古志とも表記します。

王仁は、記紀共に応神天皇の時期に来日したことが記される書(文)首(フミノオビト)の祖で、漢の高帝を先祖と自称し、王仁の子の強子首から子の河波子首が分かれ、さらに河波子首の後で高志(古志)史が分かれます。高志の氏名はのちの大和国高市郡坂合村越(今の明日香村)の地名に由来するとの考えが「日本古代氏族辞典」に載りますが、「続日本紀」の766年に和泉国の高志比登若子麻呂ら53人が連の姓を賜った記事があり、また「新撰姓氏録」和泉国諸蕃にも『古志連。文宿禰同祖。王仁之後也』とあることから、大和国、河内国の他に和泉国にも居住していたと考えられています。

 

拝殿

 

林氏は、高志連一族はここに集落をつくって高石、高脚、高師の名の起源となったと書きますが、一方で二宮氏は上記の「和泉国名所図会」の説明に対し、高志ー古志ー高石ー高師の人名・地名の称呼を混同したために生じた一説と思われる、と意義を唱えています。さらに二宮氏は当社の起源について、おそらく当初は高石荘の鎮守神として鎮祭され、熊野詣の途次に位置する故を以て「伊邪那美尊」を祀り、「熊野坐三社」を配祀したと考えられていました。なお、有名な奈良時代の僧行基はこの和泉国の高志氏の出身です。

 

社殿。海沿いの浜の感じがします。すぐ向こうは南海線です

 

【地名「高石・高師」と越国が関わるとする一説】

加藤謙吉氏は、「日本霊異記」の行基に関する記述『俗性は越史なり。越後国顎城郡の人なり』について、日本海側の越後国コシ国造勢力の流れをくむ高志公一族に誤って結び付けたとする有力説に対して、異議を唱えておられます。

 

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加藤氏のお考えでは、高志(古志)氏はそもそもは、白猪氏(葛井氏)船氏・津氏らとともに、河内国古市郡古市郷に居住して朝廷の文筆・記録の任にあたった「野中古市人」のフミヒト系集団の一員で、行基が大鳥郡の母の家で生まれた668年には和泉国に拠点を移していたとみるのが無難なようです。そして高志氏の一族の者、おそらくは行基の父がフミヒト的な職務に就くためにコシ国に派遣され、幼少の行基も一定期間居住したことが「霊異記」の記述に繋がったと想定されます。

 

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本殿。入母屋造

 

この時期にフミヒトが地方の派遣されることは他にも多くみられ、その中には赴任した国の名を名乗るようになる氏族が存在(筑紫史、壱岐史)することから、氏名の「高志」も「コシ国」から付けられた蓋然性が高いとされます。さらに、現京都府にあたる「和名抄」綴喜郡多可(タカ)郷の郷名が、その地を本拠地とした高句麗系の高(コウ)史に由来するとの伝承があるとする事例から、コシ・コウシ⇒タカシの転訛が考えられるので、氏族名の高志氏から和泉国大鳥郡の地名「高石・高脚・高師」が生まれたと推測しておられました。コシには「古志」の表記もありますが、「高志」「越」表記の方が一般的とのことです。加藤氏はご自身で不十分な論考との但し書きをされていますが、「高石・高師」が「越」とつながるとは面白い説だと思いました。

 

五社を祀る境内社拝殿

 

【社殿、境内】

上記の通り「式内社調査報告」では、本殿は昭和始めの建築で、間口二間、奥行二間半の入母屋造と記されますが、現状を見るとさらに上に銅板葺の新しい屋根を被せて増築いるかのように見えます。幣殿とつながっていて複雑そうなで構造が分かりにくかったです。

中心となる主神の社殿とは別に、拝殿と本殿が対になる境内社が鎮座します。これは明治40年に合祀された、船富神社(祭神、神功皇后)、八坂神社(同、須佐之男命)、八幡神社(同、誉田別天皇)、春日神社(春日神四柱)彌栄神社(須佐之男命)を一殿に祭ったものです。元々はそれぞれ別棟の境内社で祭られていましたが、第二室戸台風で被災してから今の形に祭られてものです。

境内は、主の社殿の周囲など松が多く植わっていて、昔の海沿いの高師浜の風情をよく残しているとされていますが、大木のほとんどが度重なる風害で倒れていて、本殿周囲の空き地はその後に植樹したもののようです。鎮座地については、「天神前」という字名があることから、創建時より現社地にあったと推定されます。

 

境内社本殿

 

【大園遺跡の古墳時代中期から奈良時代】

当社に近接する大園遺跡の古墳時代中期以降の内容にも、簡単に触れておきたいと思います。その中期には朝鮮半島からの渡来人の存在が窺われる須恵器が多数出土するようになり、「首長居館」と見られる複数の掘立柱建物や、朝鮮半島にみられる建築様式である大壁建物の可能性が高い建築の痕跡もみられます。また、大型の漁撈用土錘(魚網の重り)が多数出土する事も特異なようです。

 

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古墳時代後期になると、100か所以上もの掘立柱建物のグループが検出されるとともに、とびぬけて大量の土垂や飯蛸壷の漁撈具が出土します。これに関わるとみられるのが、「日本書紀」持統天皇三年の、河内国(後の和泉国)高脚海での漁撈が禁じられていた記述です。つまり高石神社西方の高脚海が天皇家の為の禁漁区であった事を示す記事であり、そうなると大園遺跡の内容はその前身、古墳時代後期に大王家への献納漁撈を行っていた地と見ることも可能なようです。

 

高石稲荷大明神

 

奈良時代に入ってからも重要な遺構が確認されています。一つは長さ4m以上、直径1.2mのヒノキの大木をくりぬいた巨大な井戸、二つ目がカニヤ塚古墳(古墳時代中期後半)の周濠底に石を敷き詰めて苑池にした遺構、さらに、糞食昆虫のマルエンマコガネ等の動物遺体が検出されたトイレ遺構などが大園遺跡の範囲内から検出されているのです。これら遺構の内容との関連が推測されているのが、「続日本紀」に記載のある、元正天皇が何度も通ったとされる「和泉宮」「和泉離宮」という施設です。特に「トイレ遺構」が宮都以外で見つかるのは極めて稀なことなようで、以上のことが宮があった推定根拠となっています。

 

境内端にも小さなお稲荷さん

 

【所感】

考古学の成果から見ると、当社周辺に古くから百済からの、かなり重要な渡来人が居住していたと考えるのは自然な事に思えます。ただ、これらが西文氏系のような文筆専門の氏族に繋がるかどうかはわかりません。また、奈良時代までにこの辺りは大王~天皇家の直轄地(茅渟山屯倉)のような地だったことが窺われるので、もしかして王族にかかわる公的な祭祀施設として創祀されたのかも、との感想も持ちます。あまり具体的な祭祀氏族像が文献に語られていないことや、「天神前」という字名からも、そんな印象を持ちます。

 

巨木

(参考文献:高石神社境内掲示、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、大阪府弥生文化博物館「大園。古代王権の地域デザイン」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、久世仁士「百舌鳥古墳群をあるく」新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍