
[ やまのべのみあがたにますじんじゃ ]
山邊御縣坐神社は式内論社が二社ありますが、当社はその一つです。西井戸町の集落の中、中ツ道沿いに東面して鎮座しています。布留川と初瀬川の合流近くで、「和名抄」の山辺郡長屋郷の中と推定されると、「日本の神々 大和」で小田基彦氏が書かれています。コインパーキングを使いましたが、少し距離が有ったので、しばし中ツ道を歩いて大和盆地の雰囲気を味わいました。

【ご祭神・ご由緒】
現在、当社の掲示板で明記されているご祭神は、建麻利根(タケマリネ)命。
「延喜式」式内社としての山辺御県坐神社の祭神については、「神社明細帳」「神名帳考証」(伴信友・渡会延経)が、「先代旧事本紀」天孫本紀に山辺県主の祖と見える建麻利尼命とし、「特選神名牒」が「延喜式」祈年祭の祝詞から推測して豊宇気比売とし、「大和志料」「山辺郡誌」は山辺御県神だとしています。
西井戸堂の当社に関しては、「神社覈録」は祭神不詳としていますが、江戸時代に白山大権現と称していた事が、1607年の棟札や、石燈篭でわかるようです。また、「布留社古文書」にも『白山大権現両井戸堂村』と見えています。

【大和の六御県】
大和の御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位、すなわち大王の直轄地のことだと言われています。「日本書紀」大化元年(645年)八月条に『其れ倭国の六県に遣さるる使者。戸籍を造り、幷て国畝を校ふべし』と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されていました。
・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗)
・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)☚当社
【式内社に至るまでの記録と式内論社】
730年の「大倭国正税帳」に『山辺御県神戸』と見え、既にそうそうたる古社群の一つとしてその名が記され、稲の累積貯蔵量と租稲量が記録されています。「新抄格勅符抄」の806年の牒に神封二二戸とあります。さらに「三代実録」859年の条に、当時267社が神階を進められた中に、当社も従五位下から従五位上に進み、「延喜式」神名帳にも大社として登載されました。
しかし、その後の記録が無くなり、所在も不明になってしまい、現在は天理市別所町と同市西井戸堂町の二社が伝承地として、それぞれ式内論社とされています。具体的には、「大和志料」「山辺郡誌」が別所の社を推し、一方、「大和志」「大和名所図会」「神社覈録」などが西井戸堂の当社を支持しています。

以下、西井戸堂町の当社の事を記します。
【藤原道長の宿泊した「井外堂」と十一面観音立像】
「御堂関白記」に、藤原道長が金峰山詣でのために、1007年8月2日に京都を発ち、3日に大安寺、4日に井外堂、5日に軽寺に宿泊したと記されているのですが、『井外堂』が「井戸堂」のことだと、先の小田氏は述べておられます。つまり道長は中ツ道を通ったと推定され、井戸堂には当時著名な寺社があったと思われるとのことです。
上記した「布留社古文書」の方には、『中社氏神白山大権現一社、弁財天一社、拝殿一ケ所、観音堂一カ所両井戸堂立合、但十一面観音脇立二体、釣鐘堂一カ所、行者堂一カ所』とあります。この中の観音堂はもと長谷寺小池坊の末寺で植福山妙観音と号されていましたが、明治5年に廃寺となりました。しかし、観音堂の建物は残り、本尊十一面観音立像が厨子に安置されて、重要文化財の指定を受けています。この観音堂の下に井戸があるとされているのです。
十一面観音立像は、藤原時代(美術史上の時代区分のひとつ。遣唐使廃止以後、藤原氏が摂関政治を行った平安時代中期・後期をさす)の作といわれ、胎内には長さ210センチの一部焼損した木芯が納められています。白山権現が十一面観音の垂迹とされていて、本尊の製作年代からして、かなり古い時代に白山権現が勧請されたと想像され、道長の訪問の時には既に両社寺が並び立っていたと思われると、先の小田氏は書かれています。

【鎮座地地名と山辺御井】
当社を中心にして、西井戸堂町と東井戸堂町に小字「アカタ」、吉田町に「ミクリ」、合場町に「北田部」「南田部」、富堂に「屯倉」の小字が(80年代に)現存し、町名にも「田」「田井庄」「田部」などがありました。小田氏は、これらの地名が一円に存在することは、この一帯に山辺御県が存在したことを物語っているのであろう、と書かれています。
「井戸堂」の地名の起源となったとされるのは、上記した観音堂下の井戸ですが、境内地付近(隣接する西井戸堂町公民館前)や周辺に山辺御井の伝承を持つ井戸があることも、当社が古社であることを忍ばせます。

【祭祀関連氏族】
「山辺」だけだと、「新撰姓氏録」右京皇別下に、『山辺公。和気朝臣同祖』、摂津国皇別に『山辺公。和気朝臣同祖。大鐸石和居命(鐸石別命)之後也』という、垂仁天皇の後裔氏族がいますが、ここは「山辺県主」ということなので、やはり現在もご祭神として祀られる建麻利根(尼)命に注目したくなります。
「先代旧事本紀」天孫本紀の天火明命(「旧事本紀」は、物部氏の祖神饒速日命と同一神であるかのような表現で「火明饒速日命」と表記します)に続く天香語山命から5世後に建麻利尼命が見え、これを石作連、桑内連、山辺県主等祖だと記します。兄弟には建田背(神服連・海部直等々の祖)、建多乎利(笛吹連等々の祖)がいるとされ、つまりは地方の大豪族・尾張氏系統に属する氏族となります。

【尾張氏と大和】
尾張氏については、海部氏がその別姓との伝承(熱田神宮縁起)がありますが、出自について大和葛城を発祥の地とするのか、地元尾張(愛知県)で自生した氏族なのかで議論が絶えないようです。特に後者では、愛知県の断夫山古墳の築造を画期として、6世紀以降に継体大王を支える勢力として大和入りしてきたという説もあります(加藤謙吉氏等)が、これだと記紀に考安天皇の母が尾張連の先祖奥津余曽(「旧事本紀」で『葛木彦』)の妹だとされたり、上記した建麻利尼命の「旧事本紀」上の説明と合わなくなり、悩ましくなります。
水谷千秋氏は「日本の古代豪族100」で、尾張氏の先祖・火明命が瓊瓊杵尊というきわめて尊貴な皇祖神の兄あるいは子とされている点は(伝承とはいえ)尾張氏の無視できない重要性を表わし、姓が「連」であることもきわめて異例で、尾張氏が大和本貫とする説が唱えられる背景にはこうしたこともあるだろう、と書かれています。
これまで大和の御県神社を取り上げた際、出雲伝承・口伝(と「海部氏勘注系図」)の主張を前提にしてみて、もしかしたら埋もれてしまったかもしれないそもそもの祭祀氏族を推測してきました。それが以下になります。
- (氏族) (一般説) (伝承の主張)
- 磯城県主 物部氏系 出雲系(九州勢力に攻められた)
- 十市県主 磯城県主の後 同上
- 添県主 中臣氏系 長髄彦(登美彦)→登美氏は出雲出身
- 高市県主 天津彦根命後裔 ☚の後の天御影命は海部直氏の始祖
山辺県主が尾張氏系であれば、一般的にも海部氏と関係すると理解されますから、以上5つの御県主に関しては、出雲・アマのそもそも日本海出身氏族に繋がりそう、との見え方になります。近年の考古学では、弥生時代後期は、九州とは別個に、出雲から丹後地域での鉄器流通が盛んで大和より活発だと説かれたり、古墳時代初頭期には山陰系土器が奈良盆地南東部の纏向遺跡や城島遺跡に現れると言われます。出雲や丹後の出身者が大和で活発だった時期があったのかもしれないです。
「古代海部氏の系図」で金久与一氏は、尾張氏の解説の最後に、『もとは丹後の海部氏が大和葛城の高尾張邑に移住し「高尾張」氏を名乗り四世紀ごろ尾張(東海地方)へ移動したものといえよう』との言葉で締められていました。文中の根拠説明は不十分ですが、海部氏系図を参照する際に交流した籠神社の海部宮司からの伝えではないかと、個人的には推測しています。

(参考文献:当社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「先代旧事本紀訓注」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、三浦祐之「風土記の世界」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)










































































































