摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

辛國神社(大阪府藤井寺市藤井寺) 奈良時代創建の葛井寺と対を成す古社に物部の神が祀られる謎

[ 辛国神社/からくにじんじゃ ]

 

個人的な話になりますが、高校生の頃に毎日電車通学で通過していた近鉄藤井寺駅のすぐ近くに鎮座する神社で、その「藤井寺」の名前が古代「葛井氏」とその氏寺に因むと知った時は、改めて古代氏族の名前が現在の生活にも影響している事にいたく感激したものです。実は神社の公的なご由緒には葛井氏は見えないのですが、今も葛井寺とセットで鎮座している事が何とも意味ありげに感じました。

 

一の鳥居

【ご祭神・ご由緒】

現在のご祭神は、饒速日命天児屋根命素戔嗚命の三神です。当社によるご由緒説明では、五世紀後期の雄略天皇の時代に創建された式内社です。関連する所伝が「日本書紀」にあり、その雄略紀に物部大連目が天皇から「餌香(恵我)長野原」の地を賜った記事に関連付け、この藤井寺の地に祖神である饒速日命を祀ったことに始まるとされています。この後、6世紀後半に物部氏宗家の守屋大連の没後に、一族の物部辛国連が氏神として祭祀したことから、「辛国神社」と称するようになった、と続きます。

しかし、「日本の神々 河内」で古田実氏は、以上の由緒について、「新撰姓氏録和泉国神別の物部氏の枝氏である「韓国連」に付会したものであろうか、と疑問を持たれています。

 

「大阪みどりの百選」の参道

 

【古代藤井寺に関する学説】

古田氏によれば、上記の守屋大連の没後に現在の藤井寺地域に入って来たのは、蘇我氏に直属していた朝鮮渡来系氏族である百済辰孫王一族である王氏一族で、彼らの支配地となります。王一族は6世紀後半には白猪(のちの葛井フジイ)・船・津の三氏に分立し、朝廷の史部(書記官)として散見される文化人的集団となっていきます。彼らは河内の東西古道として有名な丹比道(竹之内街道)と大津道(長尾街道)の周辺に居住しました。

 

二の鳥居。勧請された長野神社のもの

 

藤井寺周辺に本拠を置いていたのが白猪氏で、「日本書紀欽明天皇の条に、王辰爾の甥の胆津が白猪田部の屯倉の戸籍を確定した功により、「白猪史」の姓を賜ったことが見えます。後の元正天皇の720年にはさらに「葛井連」の姓を賜り、725年には氏寺として「葛井寺」をこの地に創建しました。平城京内にも別邸を持ち、中堅官人としても活躍しました。

 

拝殿

 

古田氏は、渡来系氏族が氏神社を持つようになったのは、おそらく推古十年(607年)の「神祇祭祀令」以降のことであると考えておられました。一方、葛井寺については、薬師寺式伽藍配置と推定されていて、山田寺式軒丸瓦が出土しています。かつて野中寺の本尊仏と同様に秘仏だった千手観音像は、奈良時代の傑作とされています。現在の辛国神社は、この葛井寺の西方に対をなすように鎮座しています。

 

本殿。社殿は1987年に建て替え

 

【祭神饒速日命の謎】

それでも当社がかなり古くから饒速日命を祀っていたのは確かなようで、上記した通り6世紀後半までは、物部氏の族長である目→荒山→尾輿→守屋と支配が継承された事も確実なので、したがって、葛井氏らの居住以前から物部氏の祖神饒速日命が当地に祀られていた可能性も一応は考えられると、古田氏は述べます。ただ、饒速日命と「辛国」の名は直接はつながらないともお考えで、あくまで和泉国の韓国連への付会を想定されています。

 

春日天満宮

 

【祭祀氏族】

葛井氏は上記したとおり百済系渡来人で、姓は連、のち宿禰です。旧氏名が、王、白猪史。「続日本紀」790年の津連真道らの上表文によると、応神天皇百済から有識者を招くよう命じて使いを送ったところ、百済国王貴須王が孫の辰孫王を来日させました。そして、辰孫王の曾孫午定君の子のところで三氏に分かれ、王味沙の後が白猪史(葛井氏)、王午の後が津史、そして王辰爾の後が船史(国分神社野中神社)となるのです。

 

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春日天満宮の社殿

 

「日本古代氏族事典」では、この辰孫王の後裔一族の伝承について、西文氏の王仁の伝承を真似たものとみられるとしています。さらに加藤謙吉氏も、本来は野中郷と隣接する河内国古市郡古市郷の王仁後裔氏族(西文・馬・蔵氏)などとともに、「野中古市人」とよばれる百済系フミヒトより成る擬制的な同族集団だと考えられています。加藤氏によれば、白猪史骨が律令の撰定者に含まれていることが注目され、船史などとともに「野中古市人」の一員であり、中・南河内のフミヒトとして藤原鎌足不比等と親しい関係にあったことから、律令撰定者に抜擢されただろうとのことです。

 

話は横道に逸れますが、羽曳野市古市の白鳥神社の鎮座地は、西文(河内文:かわちのふみ)氏の本拠で、神社のある白鳥神社古墳が古墳かどうか確かめられない事や、宮内庁日本武尊陵とする近くの軽里大塚古墳、いわゆる白鳥陵は日本武尊の舞台となる時代より新しく時期が合わないと指摘されます。不比等が主導した「日本書紀」に協力して話を合わせたかも?などと勘繰りたくなります。

 

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春日稲荷

 

平安時代初期のころは、辛国神社は葛井連と同族の岡原連共通の氏神だったと推定されます。葛井氏は平安初期には平安京に移住しますが、その分家の氏人についても「三代実録」の863年に『右京職に貫付す』と記され、この時点で河内の葛井連一族の主な人たちは全て右京に移住したとみられます。

 

春日稲荷社の祠

 

【中世以降歴史】

室町時代に河内守護の畠山基国が河内古市に赴任した際、当社に社領二百石を寄進し、奈良から天児屋根命を勧請して、現在地に春日造の新社殿を造営したといわれています。それ以降、社地を「春日山」といい、社名も「春日社」と呼ばれるようになりました。戦国期を通じて葛井寺と共に戦火で焼失と再建を繰り返しましたが、饒速日命春日大神を祀る産土神として江戸時代も信仰が絶えず、明治5年には村社に列しました。

 

西国第五番札所 葛井寺 南大門

 

明治41年に、葛井寺境内の西南隅にあった式内社長野神社(祭神素戔嗚命)を、野中村の野中神社(祭神素戔嗚命)とともに合祀した事で、現在のご祭神が並ぶことになります。この時、長野神社から鳥居も移転され二の鳥居になっています。この時、神饌幣帛供進社にもなりました。その後、野中神社は、戦後の昭和27年に村民の方々の要望によって旧地に戻り、今も野中宮山古墳の後円部に鎮座しています。

 

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葛井寺 本堂

 

【社殿、境内】

「日本の神々」で古田氏は、本殿が檜皮葺の極彩色の春日造だとしていますが、現在の社殿は1987年に建て替えられた流造です。対して、1993年に北野天満宮より勧請された春日天満宮が銅板葺の春日造の社殿になっています。

 

辛国神社 境内

 

申し遅れましたが、当社境内の素晴らしいところの一つが真っすぐ長い参道です。こんもりした木々でしっかり覆われ、「大阪みどりの百選」にも選ばれている良い雰囲気の空間です。沢山の種類の椿が植えられているのが特徴で、中には珍しい品種もあるそうです。

 

「大阪みどりの百選」の参道。境内より

 

(参考文献:藤井寺市公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 河内」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、大橋信弥「継体天皇と即位の謎」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)