摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

伯太彦神社/伯太姫神社(大阪府柏原市玉手町/円明町) 藤原不比等を養育した田辺史氏の社と玉手山古墳群が重なる謎

[ はかたひこじんじゃ/はかたひめじんじゃ ]

 

高槻市弁天山古墳群とほぼ同時期・古墳時代前期の首長墓系譜ということで、かねてから親近感がわいていた玉手山古墳群ですが、その地に渡来系氏族ゆかりの神社が鎮座するという事で、神社参拝と古墳見学をしました。玉手山公園の無料駐車場に停めて廻ったのですが、二社の入口の間に玉手山古墳群の山の尾根がそびえる位置関係でなかなか高低差があり、猛暑のなか修行のような行脚となりました。

 

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【伯太姫神社】拝殿。見出し写真は入口鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

伯太彦神社のご祭神は、伯太彦命、広国押武金日命(安閑天皇)の二神で、一方の伯太姫神社のご祭神は、伯太姫命、大年大神、八幡大神(応神天皇)、子安大神、厳島姫大神の五神を祀っています。

 

【伯太姫神社】神門

 

それぞれのご祭神に対する過去の考証ですが、伯太彦神社については、「河内国式内社目録稿本」は伯太比古命、「特撰神名牒」は伯太彦命、「渡会氏神名帳考証」は『田辺史伯孫の祠か』とし、また「大日本神祇志」には『けだし田辺史の先、伯孫なり』とあります。

また、伯太姫神社の祭神考証の方は、「河内国式内社目録稿本」が伯太比売命、「河内国神私考」は伯太媛命として『伯太媛と云うは伯孫の妻か』と記します。さらに「大日本神祇志も『けだし田辺史の先、伯孫の妻なり』とし、「地理志料」は『伯太首の祖天表日命の妻』としています。

「日本の神々 河内」で古田実氏は、以上に触れた後、両社を含む一帯は古代の田辺史氏の本拠地であり、両社ともこの一族の祖神を祀ったもので、二神はいわゆる夫婦神だろう、とされています。

 

【伯太姫神社】本殿。流造

 

【鎮座地、発掘遺跡概要】

大和川の南岸側に位置し、古代に「飛鳥戸安宿(あすかべ)」と呼ばれたこの地方一帯は、5~7世紀にかけて多くの渡来人が入植したところで、現在の柏原市域の南部、田辺・玉手・円明一帯には田辺史一族が住んでいたと考えられています。

 

【伯太姫神社】境内からの大阪平野方面

 

一方、伯太彦神社のある丘陵稜線上の、およそ玉手町から円明町にあたる地域に、3世紀後半から4世紀中頃の間に連綿と築造された前期式前方後円墳を中心とする玉手山古墳群があり、さらに丘陵の東西の麓には6世紀中葉から同末葉にかけての安福寺横穴群が群集します。

両社の鎮座地と重なる玉手山古墳群ですが、詳しくは後述いたしますが、その築造時期から田辺史氏とは関係ないでしょう。一方、安福寺横穴群の方は、柏原市の説明では、陶棺が確認された事から土師氏との関りが指摘されているそうです。古墳の内容については下に記します。

 

【伯太彦神社】入口鳥居。山の方からは入れないようです

 

【祭祀氏族・田辺史氏】

田辺史氏の初見は、「日本書紀雄略天皇九年の『伯孫の埴輪馬伝承』です。田辺史伯孫の娘が古市郡の書首加竜の妻になり、男の子が生まれた祝に行って、月夜の頃に帰っていた時の話です。誉田陵(応神天皇陵)の下で、普通でない速さで走る赤馬に乗った人と出会い、伯孫の希望でお互いの馬を交換しました。ところが翌朝、赤馬は埴輪の馬に変わっていて、誉田陵に戻ると、元の伯孫の馬が埴輪に間に立っていたというもの。何ともほのぼのとシンプルな話ですが、首をかしげたくなる話が多い記紀の中では、少し洗練された感じがします。

 

【伯太彦神社】安福寺の隣。中でつながります

 

この所伝で、書首とは西文(河内書。かわちのふみ)氏のことで、記紀応神天皇の時期に百済から招かれた王仁の後裔氏族という伝承を持つので、田辺史氏が西文氏の管理下で文筆・記録の職にたずさわった史部の一族だと考えられます。田辺史氏は、「新撰姓氏録」に『漢王の後、知聡より出ずる』とありますが、一般には百済系渡来氏族と考えられています。というのも後の「日本書紀私記」弘仁私記序(平安時代に行われた計6回の「日本書紀」の講義用覚書の内、弘仁3年のもの)に、田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣らの祖は、仁徳朝に百済から帰化した思須美と和徳の両人だと書かれるからです。

 

【伯太彦神社】参道の石段

 

田辺氏は学問や渉外関係の職域で顕著な足跡を残していて、「大宝律令」撰定者の百枝と首名、「続日本紀」の編集に加わった大川(上毛野公)、大川の子で「新撰姓氏録」の編者だった穎人(上毛野朝臣)らを輩出します。なお、750年に田辺史難波らが上毛野君に改氏姓され、さらに810年には朝臣姓を賜っています。これは8世紀に盛行した、渡来系氏族の出自改変の風潮に則ったものです。

 

【伯太彦神社】石段を登りきり、左手が境内です

 

この両社は一族の氏神であり、「文徳実録」858年に、『河内国に在す従五位下の伯太彦・伯太姫の神を並に官社に列す』と記され、「延喜式神名帳では小社として登載されています。

 

【伯太彦神社】境内・社殿

 

【中世以降歴史】

江戸時代には、伯太彦神社は安福寺の鎮守として、伯太姫神社は円明地区の産土神として存続しつづけ、明治5年には共に村社となりますが、明治10年には古市村の誉田八幡宮に合祀されます。しかし昭和21年に共に独立して旧地に戻りました。

 

【伯太彦神社】本殿。入母屋造に庇が付きます

 

藤原氏と田辺史氏の関係】

加藤謙吉氏は、応神天皇の時代に渡来したとされる辰孫王の後裔一族である河内国白猪(葛井)・津の三氏と、河内国古市郡古市郷の王仁後裔氏族西文・馬・蔵氏らが、「野中古市人」とよばれる百済系フミヒトより成る擬制的な同族集団で、藤原鎌足不比等らと密接に結びついていたと考えます。白猪史(葛井連)骨が律令の撰定者だったり、白猪史広成と船連大漁が「書紀」の撰述に従事した事が想定されるほどだったというのです。そして、上記の通り西文氏と関係の深いフミニトである田辺史もそこに含まれるとされます。

 

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【伯太彦神社】境内社の若宮大神。他にも小さな祠があります

 

田辺史氏は、この地以外にも摂津国住吉郡田辺郷や山背国宇治郡山科郷にも一族の者が居住したとされますが、「尊卑分脈」には藤原不比等が山背国宇治郡山科郷の田辺史大隅らの家で養育されたので、「史」と名付けたと書かれています。また、「扶桑略記」の記述に、『内臣鎌子於山階陶原家<在山城国宇治郡>始立精舎』とあり、「藤氏家伝」にも「山階之舎」で鎌足が火葬に付されたと書かれます。加藤氏は「陶原家」が鎌足の家であり、それが田村史の家と近い位置関係にある事から、地域的な交流を通じて結びついたと考えられます。

 

安福寺側入口近くに横穴群があります

 

さらに、「東大寺要録」に藤原不比等の娘で聖武天皇皇后の光明子の諱が『安宿媛』などとあるのは、河内国安宿郡にちなむもので、これは光明子の養育に田辺史がかかわっていたためではなかろうか、とされています。光明子を産んだ県犬養宿禰三千代と不比等の婚姻を仲介したのが、田辺史氏だという説もあるのです。加藤氏は、鎌足は英才教育を意図して不比等を田辺史大隅に預けて有能な指導者に育てようとしたのであり、そのような方針は不比等以降、武智麻呂や仲麻呂へと続いたと考えておられます。

 

対向する側面の横穴

 

【安福寺横穴群】

6世紀中葉から同末葉に造られた35基の横穴群で、大阪府では柏原市のもの(大和川対岸の高井田にも有り)しかありません。凝灰岩の岩盤をくりぬいて造られたモノで、中には棺を造り出した横穴もあると掲示説明にありました。それこそ今のマンションのように二層三層に重なって密集している事も特筆です。

 

【玉手山7号墳】右側が後円部で、後藤又兵衛基次らの碑の奧に前方部があります

 

【玉手山古墳群】

玉手山古墳群は、両社と重なる大和川の南岸近くに存在する、3世紀後半から4世紀中頃の間に築造されたと考えられる、多くの前方後円墳を含む古墳群です。同じく柏原市の国分神社に隣接する松岳山古墳群とともに、古市古墳群と位置的には近いものの、時期的に間が空いていて、直接的なつながりは見いだせないというのが現在の見解です。この間に、玉手山古墳群の築造集団は没落したと考えられています。ここで気になるのが、松岳山では辰孫王後裔の船氏が、そしてこちらは田辺史氏と、共に後の時代に古市郷、野中郷と関わる、上記の加藤氏による百済系フミヒトが居住しているのが何とも意味深です。

 

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【玉手山7号墳】後円部側。柵があるのが墳頂

 

玉手山古墳群の前方後円墳は、100m前後の古墳ですが、墳形は下記のとおりオオヤマト古墳群の大王墓とそれぞれよく似た相似関係であると考えられている事が興味深いです。

  • 玉手山1号墳(小松山古墳、110m、4世紀初頭)  渋谷向山古墳
  • 玉手山3号墳(勝負山古墳、100m、3世紀末)  西殿塚古墳
  • 玉手山7号墳(110m、4世紀初頭~中頃)  行燈山古墳
  • 玉手山9号墳(65m、最古の3世紀後半)  桜井茶臼山古墳

 

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【玉手山7号墳】後円部墳頂の供養塔

 

【玉手山7号墳】

玉手山公園ふれあいパークに隣接して玉手山山頂にある玉手山7号墳は、前後共に三段築成の前方後円墳で、後円部に墓壙と粘土槨が検出されていますが、攪乱がひどくて埋葬施設の構造は明確ではないようです。安山岩の板石が散乱しているので、竪穴式石槨の可能性もあります。滑石製の合子の蓋と身や、埴輪では円筒と家形の破片が採集されて、上記の築造年代が考えられています。

 

後円部墳頂には大坂夏の陣戦没者を供養するために、安福寺の珂憶(かおく)上人が建てた供養塔が建っています。また、前方部には尾張徳川家二代目の徳川光友の墓があるようです。後円部はまさに山の頂上で東方の絶景が堪能できます。

 

【玉手山7号墳】消失した6号墳の東石槨。隣の6世紀の家形石棺は、玉手山古墳群のものではなさそう

 

【玉手山1号墳、2号墳など】

7号墳から北に山を下って行った先の住宅街の中に、1,2,3号墳が現在も有ります。一番北の玉手山1号墳こと小松山古墳は、古墳群の中で最も良好に残っていると、柏原市は説明します。前方部2段、後円部3段(もしくは4段)で、後円部に方形檀があります。方形檀は板石を積み上げたもののようで、竪穴式石槨が存在すると考えられますが、墳頂部は私有地(案内看板があり登れます。墓地です)で大坂夏の陣で亡くなった奥田忠次の墓碑があるので、調査されていません。くびれ部東側には、口縁が大きく開く円筒埴輪が見つかっていて、早い時期のものです。墳頂からは二上山が望めます。

 

【玉手山1号墳】後円部側から

 

2号墳は1号墳の直ぐ南で、今は全体が墓地になっていて、コンクリートで覆われています。たしかに前方後円型の原型は分かるものの、正確な墳形は確認できません。築造は1号墳にわずかに先行するようです。さらに南に3号墳がありますが、周囲から古墳の様子は確認できません。

 

【玉手山1号墳】後円部墳頂から。右側に見える墓地が2号墳。中央の建物の奧に3号墳があります

 

しかし、そこから振り返って西方を見ると、石川方面の向こうに大阪平野が広がり、古市古墳群の誉田御廟山古墳(一番下の写真の左)や仲津山古墳の威容が堪能できます。とにかくこの玉手山古墳群が、目立つ場所に一連の古墳が次々に築造された事が実感できました。(古墳、横穴については、柏原市立歴史資料館のホームページが詳しいので、是非ご覧ください)

 

【玉手山2号墳】前方部側から。墓地です

 

【玉手山古墳群築造集団の行方】

玉手山古墳群が、天理市から桜井市にわたるヤマトの古層の大王墓群とことごとく相似形であり、しかしそれが4世紀中期以降に没落したらしいことと、そこが朝鮮渡来系の田辺史氏の本拠地になったこととの関係が気になります。お隣の松岳山古墳群においても佐紀古墳群との関係が考えられていますが、こちらも後にに朝鮮渡来系の船氏の管理地になっていて、その船氏は8世紀には古市地域を拠点にします。にもかかわらず考古学的には松岳山古墳群の築造集団が古市古墳群に発展的に移動していったとは考えられない、と柏原市は説明します。

 

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吉村武彦氏よると、「日本書紀」で(現実的な)ハツクニシラススメラミコトはイニエ王なので、文献史学ではその大王墓・行燈山古墳がヤマト王権の始まりとなりますが、そうするとその前の桜井市の大王墓から続けて関係を保っていた玉手山の人たちとヤマトはどんな関係を続けていたのか、想像が難しくなります。説を立てるのに十分な資料・史料がない時期に関しては、どうしても出雲伝承・口伝が思い出され、天理市から桜井市にわたる大王墓群が同じ系統の氏族によって築造されたとする主張が気になってしまいます。玉手山古墳群の築造者達は、国史編纂・律令体制化の段階で田辺史氏によってこの地から消されたのでしょうか・・・それが出来る立場にあったかもしれないのです。

 

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3号墳の場所あたりから西側を望む

 

(参考文献:柏原市立歴史資料館公式HP、柏原市掲示説明、中村啓信「古事記」、宇治谷孟日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍