摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

水主神社(京都府城陽市水主宮) 海部氏・尾張氏の十柱の祖神と衣縫の神を併せ祀る和裁の聖地

 

[ みぬしじんじゃ ]

 

こちらの社叢の姿に感銘を受けておりましたが、交通が不便で駐車場もないということでなかなかお伺いできませんでしたが、ようやく参拝させていただくことにしました。現在はすぐ後ろに高速道路が通るのですが、広大な田園の中にこんもりした社叢があたかも「竜宮」のように浮かび上がる様を直に確認でき、また社叢の中も独特の空気感で、古びた社殿とともに貴重な神社だと感じました。

 

社叢

 

【ご祭神・ご由緒】

延喜式神名帳に水主神社十座とある式内社で、「日本の神々 山城」で大和岩雄氏は、祭神が十座という例は他の式内社にはない、と書かれています。現在その十座は、天照御魂神・天香語山神・天村雲神・天忍男神・建額赤命・建多背命・建諸隅命・倭得玉彦命・山背大国魂命となっています。「延喜式神名帳の注記に『並大。月次新嘗。就中同水主坐天照御魂神。水主坐山背大国魂命神二坐。預相嘗祭』とあることから、当社の本来の主神が、天照御魂神と山背大国魂命神であることは明白です。

 

割拝殿。入母屋造

 

この二神について栗田寛は「新撰姓氏録考証」で、天照御魂神は天照国照彦火明命であり、山背大国魂命は度会延佳の説のように玉勝山代根古命を祀るものと書いていて、火明命は「日本書紀」は尾張連の遠祖と記します。また、十座のうち天香語山命から倭得玉彦命までは「先代旧事本紀天孫本紀の火明命から八世の孫までの名です。さらに、「新撰姓氏録」は、水主直の祖を火明命と書きます。

つまり、水主直が直接の祖である玉勝山代根古命を山背大国魂命神として、そして始祖の火明命を天照御魂神という一般的な神名で祀ったものと推察できると、大和氏はまとめられます。

 

本殿

 

【祭祀氏族】

「水主」は本来「ミヌシ」と訓みますが、土地の人は「ミズシ」とも称すると、大和氏が書かれています。「新撰姓氏録」の山城国神別に”水主直”が載り、火明命の後裔とされています。大和氏は佐伯有清氏の、『水主の氏名は、後の山城国久世郡水主郷の地名にもとづく。ただし水主は、水取と同じで「モヒトリ」と訓み、清水の供御にあたる水部の伴造氏族だったことによるかもしれない』との説を引用され、宮廷の水取は「主水」と書くことに触れたうえで、佐伯氏に同意されます。

また、「大同類聚方」には、平安遷都直後の大和の鏡作坐天照御魂神社の社家は水主直だったと見えます。畿内とその西方にのみ存在する天照御魂社の祭祀氏族はすべて火明命を始祖としています。

 

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本殿。相殿神も祀られます

 

【祭神・別雷大神説】

元禄の頃(1688-1704年)に書かれた「山州名跡志」では、水主社が賀茂別雷神社と同じ祭神だとの社家の説に触れ、これが「延喜式」の祭神と相違するとしています。さらに、「賀茂注進雑記」の1186年9月5日付の源頼朝の下文には、山城国水主郷などの地は「賀茂別雷社領也」と書かれているようです。大和氏は、当社が「別雷大神」を祀るようになったのは、この地が賀茂別雷神社神領となったためとも推測できるが、水主氏も賀茂氏も「主水司(モヒトリノツカサ)」にかかわる氏族であることから、主水司で祀る雷神(鳴雷神)が当社の祭神になった可能性を考えておられました。賀茂氏が関わる主水司で祀る神は、「延喜式神名帳の宮中36座のなかの「鳴雷神社」なのです。

 

本殿。流造。1798年再建

 

【鎮座地】

当社は、鴻巣山、水度神社と月読神社を結ぶ、夏至日の出遥拝方向の線上に並ぶことが注目されます。当社から日の出方向にある水度神社は、三富、三度、水戸、三田とも表記され、「新撰姓氏録」には、三富部が火明命の後だとあります。

延喜式神名帳では『水度神社三座』と記され、現在の祭神は天照大神高皇産霊尊豊玉姫となっていますが、「山城国風土記逸文には天照高弥牟須比命、和多都弥豊玉比売命とします。大和氏は、「延喜式」が三座と書くのは「風土記」の天照高弥牟須比命を天照(アマテル)と高弥牟須比命(タカミムスビ)の二神と見た結果だと見ます。そもそもは「大日本地名辞典」のいうように、「天照」は「高弥牟須比命」の美称であり、日神として火明命と同一神格の天照御魂(ミムスビ)神だと解されると結論づけられます。つまり当社と同じ神と祭っていただろうということです。

顕宗紀では、タカミムスビは日神、月神の祖とされており、「アマテルタカミムスビ」の神名表記が生じた由縁も、その辺に求められるのではないかと、大和氏は考えておられました。

 

金毘羅宮

 

【樺井月神社】

水主神社境内に鎮座する樺井月神社は、「延喜式神名帳大社の後進であり、月読命を祀っています。もとは大住郷にありましたが、木津川の氾濫で1672年にこの境内に遷座したようです。同じ大住郷に月読神社があるのに、なぜ樺井月社が郡もことなる水主社に遷されたのかについては理由があると、大和氏は考えられます。

 

樺井月神

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水主と大住の間にはかつて渡があり、「山城名跡巡行志」は、樺井の渡として『木津川渡、又水主渡と云う』と記されています。「続日本後紀」は845年の条で、首が黒く体が赤い、大きな蜜蜂のような虫が現れ、咬まれた牛馬が死ぬので、卜したところ樺井社および道路の鬼の祟りとわかり、使いを遣わして祈願したという事件を記します。この樺井社は、樺井月神社が牛馬攘疫祭、牛祭などと言われる祭りを行い、牛馬の守り神になっていることから樺井月神社だと考えられます。

月神は、潮の干潮や川の水の増減など、水の支配にかかわるので、おそらく樺井月神社は本来、渡の神として祀られ、塞の神的性格をもっていただろうと、大和氏はみられます。樺井月神社と月読神社は九州から来た隼人が月神を祀った神社ですが、樺井月神社のほうは樺井の渡の関係からしだいに水主神社と対の関係で信仰されるようになり、そのことで水主神社の境内への遷座となっただろうということです。

 

野上神社。祭神は天菩日(ホヒ)命。出雲大社宮司の始祖です…

 

【境内】

聖武天皇の時代に合祀されたと伝わる衣縫神が相殿で祀られています。衣縫神社としての創建由緒は古く、5世紀半ばに天村雲命9世孫の大縫命と小縫命をご祭神として祀ったとされます。この二柱は、成務天皇の時代に糸縫針の職に就き、衣縫の氏を与えられたことから、「衣縫の祖神」などと言われます。ということで、和裁の聖地とされるようになり、日本和裁士会の方々が例祭で針乃碑に多数参拝されてるようです。

 

小見外次郎像と針乃碑

 

針乃碑の横に立つ小見外次郎像は、東京にあったものを2023年にこの地に遷したものです。小見氏は、明治時代に三越で裁縫部主任を務め、伊藤博文の衣服などを作った御方。和裁・無形文化財にも指定され、その御方の7回忌の時に都内に建立された像を、都市開発の影響から当社に移設されたものです。

 

稲荷神社

 

【伝承】

丹後・宮津市元伊勢籠神社神職・海部氏の極秘伝として伝えられているという話に、火明命は賀茂別雷神社の祭神・別雷命と異名同神だというのがありますが、もしかしてこれは、上記した水主神社のご祭神が別雷大神とするのが、水主氏も賀茂氏も宮中の「主水司」にかかわる氏族という共通点からという話と通じるのでないか?と思いました。宮中でたまたま同じ職掌となったからなのか、あるいは、それ以前から賀茂氏系と火明命を祖とする尾張・海部氏系との関係があったから同じ職掌だったのか・・・の可能性も想像されますけれども。

当社の火明命以下の九座の方々は、「海部氏勘中系図」や出雲伝承・口伝からすると、尾張氏や海部氏が混合しています。丹比氏につながる建額赤命がおられるのが気になりました。

 

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(参考文献:水主神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、竹内睦奏「古事記邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍