摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大化の改新期の前期難波宮 近年の発掘成果 ~斉明帝飛鳥遷都の謎と牽牛子塚古墳の夾紵棺~

秋の特別展「藤原鎌足阿武山古墳」が行われている今城塚古代歴史館で、藤原鎌足が活躍した「大化の改新」期の難波宮(前期難波宮)の、最新の調査状況に関する講演会がありました。興味深かった部分について、私なりの理解と感じた事を記したいと思います。

講師は、長年現地で発掘調査を担当されてきた、大阪市教育委員会の主任学芸員佐藤隆氏。お話では、特に土器編年に重きを置いた年代分析に時間を割かれていましたが、そのお考えが理解できる豊富なデータ資料や参考となる略年表を説明資料として配布いただき、考古学とは何か、の要点をわかりやすく解説していただけたと思っています。




上町台地のほぼ北端



土器というのは、発掘調査で数多く出土する事、そして壊れやすいから時代ごとの流行の入れ替わりが反映されやすいので、年代を知る物差しにもってこいなのだとか。それらを、形や仕上げ方で順に並べて、まず移り変わりを段階毎に整理する。微妙な寸法の変化も、時代変遷をみる大事なポイントです。

 

続いて、年代が書かれている同時に出土した資料や、成立や廃絶の年代の明らかな遺跡から出たもの、もちろん土器自体の科学分析で得られた年代、などから各段階の歴年代を対応させて年代を割り付けていくのだそうです。大事なのは、なるべく多くの手がかり資料で判断する事。一つだけでは、簡単に異説が出てしまい、ひっくり返ってしまいますから。慎重に考えないといけないんですね。

 

難波宮付近では5世紀~9世紀の土器が出土しており、それらを11の段階で整理した一覧表を見せて頂きました。この整理された土器編年では、大化の改新期の前期難波宮、つまり難波長柄豊崎宮が造営されたのは、7世紀中ごろの「難波Ⅲ中段階」と判断されています。日本書紀では651年としていますね。

 

ただ、次の「難波Ⅲ新段階」の7世紀第3四半期でも土器は数多く見つかっており、宮殿周辺の開発も続いているなど、盛んな様子が確認されてるようです。難波宮の比定の決め手となり、今回の特別展でレプリカの展示もされている「戊申年」紀年銘の木簡も、この時期の発掘物だそう。

 


難波宮の土器編年


日本書紀の記載では、653年には、中大兄皇子は孝徳帝の妃の間人皇女らを連れて飛鳥に戻り都が移った、となっていますから、話が合わない。佐藤氏によると、同時期におけるもう一方の飛鳥の方が土器が少ない事もわかっていて、土器の数量はその土地の活動を表すから、考古学の成果から見ると、日本書紀の記載がすべて正しくないのではないか、との見解を語られていました。


この考古学からの所見は、大元出版の出雲伝承・口伝の説明と一致します。中大兄皇子らが飛鳥に戻った後、孝徳帝は体調を崩しますが、その時、間人皇女は看病の為に難波宮に戻りました。そして、孝徳帝崩御後、655年正月、間人皇女は難波で大王就任を宣言したというのです。つまり、難波王朝は継続し、斉明帝の飛鳥王朝と2王朝並立だったと、伝承は主張します。白村江の戦いもこの時期で、斉明帝崩御後に中大兄皇子が大王に就かなかったのは、間人政権が強かったからだとか。"狂心の渠"等と表現されていますが、確かに斉明帝は人気がなく、飛鳥板葺宮の役人は難波宮より少なかったと伝承があると説明されています。2王朝時代は、665年の間人皇太后崩御まで続きました。その時期に出家したのは、間人皇太后の元で働いていた難波宮の役人ということです。

 

今城塚古代歴史館の今回の展示では、斉明帝と間人皇女の二人の墓として有力視される、牽牛子塚古墳の棺、夾紵棺(きょうちょかん)の破片が展示されています。への字形に反っていて、棺側面に稜を付けるという凝った形態だったよう。この破片は確かに2棺分が発掘されてます。間人皇女は大王の妻で娘ですが、これだけで大王級の棺が用意されるでしょうか。斉明帝と並び立っていたから、とすると理解がしやすいです。



講演の最後は、特別展の主役、阿武山古墳で発掘された土器の編年について、佐藤氏自身の確認結果からコメントが有りました。鎌足墓とするには阿武山古墳の土器は少し古くて、鎌足の死期と合わないとする研究者もいて、まだ議論されてるというのが実情。対して佐藤氏は、もう少し資料数が欲しいところだが、阿武山古墳の土器は7世紀第3四半期の物と考えて矛盾はないそうです。