[ かみすむちじんじゃ/なかとみすむちじんじゃ ]
大阪市内の須牟地(住道)の名を持つ二座です。直線距離にして3キロほど離れた両社ですが、今回は電車で訪れ、大阪メトロの今里ライナ―(BRT。バスです)を利用して適度な時間で両社をまわる事ができました。それぞれ今は地域の神様という感じの小規模な神社ですが、中臣須牟地神社の方は住宅街の中に鬱蒼とした社叢をを今も保っているのが印象的でした。
(神須牟地神社)参道。見出し写真は社殿正面の入口鳥居
【ご祭神・ご由緒】
神須牟地神社は自社のホームページで、主祭神として神産霊大神、手力雄命、天児屋根命を、相殿として天日鷲命、大己貴命、宇賀魂命を、そして追祀として少名彦命、素盞鳴命、住吉大神という九神を祀るとしています。「日本の神々 摂津」で東瀬博司氏は、神須牟地大神以下九神と書かれていますが、神須牟地大神とは総しての呼称ということなのか不明です。一方、中臣須牟地神社の方は、中臣須牟地神と住吉大神です。
(神須牟地神社)拝殿
東瀬氏は、住道社が複数あり、鎮座地が過去に移動しているため分かりにくい点が多い、と書かれています。住吉大社の「住吉大社神代記」の子神の条に、天平元年(729)に託宣により河内国丹比郡楯原里に移り、よって゛住道里゛゛住道神゛と名づけたとあります。そしてこの記述を受けて、「神社明細書」(昭和27年)は神須牟地神社について、゛本社は初め住吉大社の北方住道と称する地に鎮座せしを託宣により天平元年に他の須牟地社等七社と共に河内国丹比郡楯原里(中河内郡矢田村字住道)に移祇せりという(「住吉神代記」)。その後国郡改廃により世に景勝の地と知られたる長居浦なる南島(現在鎮座地)に三遷せられるものの如し゛と述べていました。
(神須牟地神社)本殿
【鎮座地、「呉坂」比定】
「須牟地」は「住道」とも記され、「和名類聚抄」では摂津国住吉郡に「住道郷」が見え、注として゛須牟知゛と書かれていますが、現在は「スンジ」あるいは「スミノドウ」と読まれているようです。
(神須牟地神社)別の入口鳥居からの全景
「日本書紀」雄略天皇の十四年に、当社に関わる所伝があります。牟狭村主青らが呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊りました。この月に呉の来朝者のため道を造って、磯歯津(シハツ)の道に通じさせました。そして、これを呉坂と名づけた、というものです。本居宣長は「古事記伝」で、万葉集の歌(和泉ノ国の千沼)から磯歯津は住吉の南の近くの場所で、また、住吉の東一里程の喜連村は河内ノ国伎人(クレヒト)郷とあったのが訛って喜連になったとの伝えが有り、そして住吉から喜連の間に低い岡山があるのが万葉集の歌にある四極山(シハツヤマ)で、つまりは「書紀」にある「呉坂」であり、古へに呉の国人が通った道だと言い伝えられている、と述べています。
「式内社調査報告」で真弓常忠氏は、もし宣長がいうように住道が住吉津より喜連に通じる磯歯津路(呉坂)であるとすれば、その沿道の要所要所に祀られたのが住道の神々ではないかと言い、神須牟地神社がかつて所在したと伝えられる天神山(現在の矢田北小学校あたり)の地を四極山に孝定されています。つまり住道は今の長居公園通だと想定されるということです。
(中臣須牟地神社)社殿正面に鳥居ですが、入口はさらに左です。
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
中臣須牟地神社は、863年に在原業平を勅使とした奉幣を受けたと「三代実録」に書かれています。
この二社に関して重要なのが、「延喜式」の神事に関する記載です。まず「延喜式」玄蕃寮には、新羅の客が来朝した際には神酒を給すとされ、その酒を醸すために、大和国賀茂、意富、纏向、倭文の四社、河内国恩智一社、和泉国安那志一社、摂津国住道、伊佐具二社が各30束、合計240束の稲を住道社に送り、また大和国片岡一社、摂津国広田、生田、長田三社が各50束、合計200束の稲を生田社に送り、神部造に命じて中臣一人を差遣わして酒を給する使とし、生田社が醸した酒は敏売崎(神戸市灘区)で給し、住道社が醸した酒は難波館で給す、と規定されていました。住道社が外来の客人の接待に重要な役割を担っている点に、上記の雄略紀の伝承と合わせて注目したいと、東瀬氏は述べています。
(中臣須牟地神社)入口鳥居。社叢の横を右にあるいて境内に至ります
もう一つは、「延喜式」臨時祭で、天皇即位に祭祀て行われる八十島祭にあたり住道神二座は、住吉、大依羅、海神、垂水の神とともに座別の幣帛を受け、奉仕料として海神の祝とともに住道祝に布一端が支給される決まりだったようです。東瀬氏が引用する「式内社調査報告」の真弓氏のお考えでは、新羅の使に給する神酒を醸した住道社を、大社という「延喜式」神名帳の社格と中臣を遣わしたとあることから中臣須牟地神社であるとし、八十島祭の二座を神須牟地神社および中臣須牟地神社の事だとしておられます。
また真弓氏は、住道社の祭祀氏族として、「新撰姓氏録」摂津国未定雑姓に゛伊弉諾尊の男、素戔嗚尊の後なり゛とある住道首でないかとしますが、中臣須牟地神社がなぜ「中臣」を冠するかについては、中臣を遣わしたことによると思われるとしながら、詳細は不明とのことです。
(中臣須牟地神社)拝殿。向かって左に末社の祠が二座有ります
【伝承】
「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏は、八十島祭はオオサザキ王が始めたもので、オキナガタラシ姫とホムタ王の霊を受け継ぐ意味合いがあったと説明しています。確かに「古事記」は、オキナガタラシ姫が畿内への凱旋の際に、棺を乗せた喪船に太子を乗せて斗賀野(トガノ、難波の都下野)に上陸したその船を「空船」と呼んでいます。これに対し岡田精司氏は、空船はもとはウツボブネを意味する訓が付いていただろうとし、海の彼方から訪れる母子神信仰の核にあるものと考えられています。このような話は、鹿児島神社のご由緒や対馬の天童伝説にもあるそうです。
(中臣須牟地神社)ご神木と思われます
その八十島祭に関わったのが、上記した各社(富士林氏は海神を大海神社と推定)でした。そられはオキナガ姫の新羅遠征に協力した津守氏、依羅氏、中臣氏らの重臣たちの神社だったと、富士林氏は説明します。ただ中臣氏の氏名は、「中臣氏系図」によれば欽明朝に始まったと書かれていて、歴史的事実の基づく可能性が高いと考えられています。なので、中臣須牟地神社の中臣を河内王朝の時代に遡らせて良いのかは不明で、上記の東瀬氏の説の方が納得しやすいです。あるいは創祇時は中臣氏の前身との説もある卜部氏が関わり、後に名前を変えたという事でしょうか。
(中臣須牟地神社)本殿。あるいは覆屋でしょうか
(参考文献:神須牟地神社公式HP、東住吉区公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他 大元出版書籍)