摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

今城塚古墳 が全国古墳ランキング1位に。そして埴輪祭祀場と天皇即位の大嘗祭 ~ 森田克行 今城塚古代歴史館特別館長 講演会


日本経済新聞が様々なテーマで定期的に掲載している「NIKKEIプラス1なんでもランキング」。その8月31日の古墳をテーマにした回で、我が今城塚古墳が堂々の1位を獲得しました。それを受けて、その立役者であられます、今城塚古代歴史館の森田克行特別館長による緊急講演会「今城塚古墳の過去・現在・未来」が、9月28日に開催されたので、聴講させていただきました。

日経新聞取ってませんでしたので、1週間前の今城塚古墳のピンク石棺石発見譚の講演会(こちらも面白かったです)で訪れた際に偶然知ったというお恥ずかしい状況でした。一新聞の企画だし、と。。
それでも、私が参加した中では一番聴講者が多く、150人収容の会場ギリギリ、少しオーバーして映像で見た方もおられたのではないでしょうか。



上位10位の結果は、コチラの高槻市のHPでご覧いただくとして、点数ではもう断トツです。今年、世界文化遺産登録されたホットな百舌鳥・古市古墳群ですら5位です。投票した専門家は、以下の方々。

▽梅原章一(古墳写真家)▽川尻秋生早稲田大学教授)▽空閑彩子(「進研ゼミ 小学講座」教材開発担当)▽小林健二(山梨県立考古博物館学芸課長)▽スソアキコ(古墳好きのイラストレーター)▽松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)▽松本弥(古墳ライター)▽右島和夫群馬県立歴史博物館館長)▽水谷千秋(堺女子短期大学教授)▽森村宗冬(古墳ライター)▽吉村靖徳(九州歴史資料館文化財調査室長)=敬称略、五十音順

そもその評価基準は何か?という事ですが、①学問的価値が高い事、墳丘への立ち入りや石室見学など実地体験、③資料館など関連施設の充実、で評価したようです。こちらのNIKKEI SYLEのHPにランキングされた各古墳へのコメントが掲載されていますが、我々、地元のよく知っている人間にしてみれば、この評価基準だったら、コチラは何といっても今の天皇家にほぼ確実につながるオオド大王のお墓なのですから、今城塚古墳が1位で当然!、などとも思ってしまうのですが、全国レベルでは実態が知られてるはずもないので、やはりランキングは良いPR効果になるでしょうね。

森田先生はランキング発表後、裏を取る為、選定者の内の知人、特に学生時代から知っていた松木武彦氏にコンタクトしたそうですが、どうも売れっ子の松木氏が仕掛け人で、”全国の古墳がどう公開されてるか”の視点がランキングの発端だったようです。継体天皇関連の本を多数執筆されてる、森田先生の学校の後輩、水谷千秋氏の投票も予測がつく事から、こうした流れで今城塚古墳に有利になったみたいです。

個人的には、投票結果を予測していたかどうかは分かりませんが、宮内庁の比定から外れてる今城塚古墳が1位になった事で、世界文化遺産となったばかりの百舌鳥・古市古墳群の多くを占める陵墓が、宮内庁の管理方針で立ち入り禁止でありほとんど調査されてない状況に対する、結果それなりに強いメッセージになってるのではないのかな、とも思っています。森田先生も、今城塚が”市民の財産として活用しているかどうかが評価された”とおっしゃっていました。



講演の内容は、はじめは今城塚古墳を公園施設として整備するまでのエピソード、そして後半は最近精力的に研究しておられる、今城塚古墳の埴輪祭祀場の研究状況です。

今城塚古墳は1958年に史跡指定を受けましたが、その当時はほとんど私有地だったのだとか。そんな中、1966年に測量が行われますが、実はこれは当時の学生によるせいぜい1m単位の粗い測量でしかなかったそうで、森田先生も学生として参加。当時は不法
投棄や放火騒ぎやその他諸々が起こる物騒な場所で、文字どりお荷物的な存在だったのです。その後、整備していくために、長い年月をかけて土地を買い取っていきました。周濠部は田畑なのでまだやりやすいのですが、墳丘の方は直線で細かく区分けされて
たらしく、買収に時間がかかったようです。

それでも古墳全体の買収が完了し、1996年により正確な測量を実施します。それも、外部の業者の活用は必要最小限にし、ほとんど市の教育委員会の職員でやり切ったそうです。苦労は有りましたが、おかげで墳丘の状態が把握でき、翌年からの発掘調査での調査地域の選定に役だったそうです。



埴輪祭祀場に関わる御研究の話は、とても筋だっては書けないので、印象的な部分を掻い摘んで記します。

・今城塚古墳の埴輪祭祀場は王宮然とした方形区画で前代未聞

・仕切りの埴輪は、柵形と塀形がある。まばらに置く柵形は結界 空間をゾーンとして防御するもので、今の神社の玉垣の元祖。 一方、今城塚にもある塀形はエリアを遮蔽し出入り口も確保するもので、神社の瑞垣になった。

・この埴輪祭祀場は、大王が亡くなってから埋葬されるまでの間の、 喪に服する期間に設置される、殯宮である。これは継体大王が始めた制度と考える。

・「記紀」の記述から書き起こした殯宮の概念図と今城塚古墳の埴輪祭祀場は整合性がある。1区が私的儀礼の場で、片流造の家形埴輪は裳屋であろう。2、3区が 公的儀礼の場。4区が殯庭。

・今城塚の埴輪には、猪や鹿がいない。殯での役割がないからだろう。また、珍しいメス猿(肩に子を乗せている事でわかる)の埴輪がある。これは、天皇の鎮魂に参画する、猿女ノ君を表現しているだろう。

・この殯宮儀礼が大王権継承儀礼の基本パターンとなったが、壬申の乱で王権を獲得した天武天皇はそれが出来なかった。そこで、同等の意義を内包する「大嘗祭」を創始し、自らの皇位継承の正当化を図ったのだろう。



この日は、兵庫の五色塚古墳(9位)の管理担当の方が見学に来られてたそうです。やはり、影響力大きいようです。五色塚古墳は今城塚とは違う考え方で、造営当時の石葺きを再現した、こちらも堂々たる施設で、機会見つけて行ってみたいと思います。