
[かもならいたじんじゃ ]
南河内地域でまだ参拝していない式内社はないだろうかと探して、そのお名前に惹かれた神社です。「道の駅かなん」から歩いて10分強の地にありますが、社命とご由緒や地域の歴史がなかなかつながらない感じで大変興味深く思いました。葛城山と金剛山が迫る場所で、寛弘寺古墳公園もあり、古代史ロマンに浸ることができる地域です。

【ご祭神・ご由緒】
当社の掲示説明で掲げるご祭神は、饒速日命と高皇産霊尊。その説明では特に、『古代においては神社と部族の関係は密接であって、神を中心として部族が構成されていたからであって古い由緒のある神社のあるところはその神を奉斎していた部族の居住地であった。この地は物部氏の勢力圏でありその祖先神として饒速日尊を祀ったものと思われる』と書かれています。「式内社調査報告」には中村浩氏による、『この地は・・・』以降ほぼ同じ表現の記述がみられます。

高皇産霊尊については「調査報告」では、昭和27年の神社明細帳に載る古老の口碑から、平安朝に勅に依り天神神山神社と称せられた当神山の地に分社し、社殿両宇建立し奉祀されたところ、300年前に暴風のために社殿が破壊され、1660年(萬治三年)に鴨習太神社に合祀された、と説明しています。

以上が一般的にされている説明になりますが、「調査報告」で中村氏は、「河内国式神私考」による祭神説も紹介されています。つまり、『大田田根子。保良宮朝廷河内国石川群有双田造ナル者是大田田根子之後也。古事記曰意富多々尼古命ハ鴨ノ君等之祖也』。ただ、これ以上の解説はありません。

【石川郡内の郷と氏神】
かつて当社鎮座地の北側には、4世紀中ごろから7世紀後半にかけての長期間に築造された寛弘寺古墳群(後述)が展開し、確認されただけで92基の中小の古墳が有りました。当時この地に勢力を持っていた豪族・紺口県主のものと考えられています。

「和名抄」によると、当社の属する石川郡は、佐備・紺口・新居・大国の四郷からなっています(他には、山城・波多・余戸・科長も史料にみえる)。特に「紺口(コンク)」は、「日本書紀」仁徳天皇十四年条に『大溝を感玖(コムク)に掘る。乃ち石河の水を引きて』とあり、「住吉大社神代記」にも同様の記述があるので、古くから存在した地名とみられます。現在、紺口郷に比定されるのは富田林市の龍泉・甘南備や千早赤阪村の地になり、紺口県主との関連が考えられます。龍泉には、古代豪族の紺口県主が管掌したとみられる咸口神社が鎮座しています。

当社鎮座地は佐備郷にあたり、現在の佐備・東板持(以上、富田林市)、南/北大伴・寛弘寺・加納・白木・中・神山(以上、河南町)がその領域とみられます。そして、佐備郷が紺口郷から分かれたという説もあるようです。その中で、神山村は当社が鎮座する神山にちなむ名称と考えられていますが、江戸時代以降の地名であり、承応三(1654)年、京都所司代 役知だとする記録があるようです。

当社の南を通る国道309号線をさらに東方向に自動車で十数分程走ると、葛城山と金剛山の間を抜けて奈良県の御所市(一言主神社のすぐ南方辺り)に至ります。いうまでもなく、古代・葛城鴨氏の拠点です。

【石川郡に関わる古代氏族たち】
この石川郡紺口郷を地盤としたのが、紺口県主であることはほぼ定説です。「新撰姓氏録」河内国皇別に『紺口県主。志貴県主同祖。神八井耳命之後也』とみえます。ただ、この氏の管掌した神社は上記の通り咸口神社とされており、鴨習太神社の由緒や解説にはこの豪族と鴨習太社の関係は全く見えません。なお、志貴県主の関わる神社が藤井寺市の志貴県主神社です。
そして、当社由緒が強く説く物部氏については、河内国であればかつての渋川郡、現在の八尾市付近が本拠地だと一般に説明されます(一方、大和国では布留地域)。が、「先代旧事本紀」天孫本紀によれば、宇摩志麻治命の後に続く物部氏の系譜の中の、十市根連公(垂仁天皇の大連)の子にあたる物部金弓連公が『田井連、佐比連之祖』だとあり、これが石川郡の「佐備郷」に関わるとみられるのです。

その一方で、河南町加納の東方にある磐船神社に関して、「旧事本紀」で饒速日尊が天降った「哮峯」の候補であるとして、交野市の磐船神社に対抗する説もあります。しかし、「日本の神々 河内」で大和岩雄氏は、石川郡はむしろ物部氏と対立した蘇我氏の本拠地なのだから、そのような場所に物部氏の祖神が天降りした地があるはずがない、と一蹴されていました。
社名の「鴨」に注目した場合には、上記した「河内国式神私考」の大田田根子祭神説のみが頼りですが、そこで出てくる『双田』という豪族名が「日本古代氏族辞典」にも出てこないので、それ以上の事が確認できません。奈良時代の人のようですが、『双田造ナル者』という記述の仕方も気になります。それ以外での鴨との結びつきとなると、東の峠を越えた先に大和葛城があるという位置関係くらいでしょうか。

【地名となった寛弘寺】
現在の河南町寛弘寺に所在したと考えられるのが寛弘寺というお寺です。創建は一条天皇の寛弘年間(1004~1012年)といい、寺号もこの年号によるとする説と、当地が紺口郷と称していたことに由来するとの説があります。創建後の寺歴は詳しく分からないようですが、「嘉元記」の正平七(1352)年二月条に、後村上天皇が『東条観興寺へ行幸し』、翌日、『観興寺から住吉へ行幸』したとあり、ここでの『観興寺』が当寺を指すと考えられています。
その後、西大寺の末寺とされますが、長禄・寛正期(1457~1466年)の畠山政長・義就の抗争の際に、政長の陣がはられたことが「雑事記」に見えており、兵火にかかり伽藍をことごとく焼失、以降復興の機会がなく廃寺となったのです。その後、近世・近代にわたり村名、字名として残りました。現在は、河南町神山の北に接する地が河南町寛弘寺になり、現在は寛弘寺古墳公園もその中に整備されています。
・・・ということで、古代豪族が関係する話はみられません。

【寛弘寺古墳公園】
4世紀中ごろから7世紀後半にかけて92基確認された寛弘寺古墳群のうち、4世紀中頃から5世紀後半までの古い4,5,6号墳の三基と、6世紀後半以降の新しい7号墳が保存されて公園になっています。トイレや数台の駐車場も整備されています。

寛弘寺古墳群は「北部丘陵」「東部丘陵」「南部丘陵」の3つの区画に分かれており、判明している古墳の種類は、造出付き円墳:2基、方墳:31基、円墳:31基です。一般的に古墳時代は4世紀末と5世紀末にそれぞれ転換期があり、その時期にそれまでの古墳群が造られなくなって場所が変わっていくと考えられています。対して寛弘寺古墳群は小規模の古墳中心ではあるものの、長期間にわたり古墳がほぼ造り続けられていることが珍しいとみられます。その中でも築造のピークは4世紀後葉から末葉のようです。

なお、古墳公園のすぐ南にかつて存在した寛弘寺45号墳などの石室跡が近つ飛鳥風土記の丘(近つ飛鳥博物館周辺の一須賀古墳群内)に移設されています。特に45号墳では、石室の周りに排水溝をめぐらせた珍しい構造が確認できます。

【所感】
石川郷となると、かつての新居郷に鎮座している美具久留御魂神社も併せて考えたくなります。祭神が大国主命で、イニエ王やイクメ王が登場する由緒、地域では弥生時代の河内先住支配者が居住していたと考えられていて、地元の人々の間ではそれは出雲族の族長だと伝承されている事、さらに美具久留御魂神社の近くには三角縁鏡が副葬されていた真名井原古墳もあるのです。
また、紺口県主の詳しい系譜が不明ですが、いわゆる欠史八代期の大王系譜からの皇別氏族であると大雑把に見れば、その大王系譜の最後に出てくる彦坐命の後裔に、日下部宿祢氏と同祖の鴨君(摂津国)が居たことが気になります。となると、一地域一豪族という単純な割付ではなく、蘇我氏出現前に、出雲伝承・口伝が主張していたような、複数の豪族が葛城~河内の地域でせめぎ合っていた果てのおぼろげな痕跡が混とんとして見えているに過ぎないのかも、と思ってとりあえず納めておくしかないように感じました。

(参考文献:鴨習太神社境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「先代旧事本紀訓注」、「角川日本地名大辞典」、「日本歴史地名大系」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、水谷千秋「日本の古代豪族100」、三浦祐之「風土記の世界」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 河内」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)