摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など、古代からの要衝である高槻市から史跡を巡って、諸説や伝承など多角的で多くの情報を取り上げたいと思っています

須波麻神社(大阪府大東市中垣内) 古い自然信仰と大国主命信仰が重なる生駒山裾のスハマ地名

[ すはまじんじゃ ]

 

北河内でも淀川から離れると、古文献の有名な所伝もあまりなく、下記するように大きな前方後円墳もないということで、なかなか足が向きにくい地域でした。それでも、この不思議なお名前が心に引っかかっていて、調べてみたいと思いご挨拶をさせていただきました。

 

神社境内から400m弱手前の燈篭と石標

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は大国主命。「日本の神々 河内」「式内社調査報告」での田村利久氏によると、古老が出雲大社と同体だと話していたとのことですが、記録の類はすべて失われていて、由緒は不明です。北河内で大国主命となりますと、四条畷市の忍陵神社に明治時代に合祀された式内社・津桙神社の社名について、大国主命の別名「八千矛」が「津桙」に転訛したものか、とみる説(「河内式神私考」)が語られていたことが思い出されますが、もちろん関係は分かりません。

 

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田村氏によると、渡会延経の「神名帳考証」では、祭神を木の神とし、「河内式神私考」でも木霊神である久句能智(ククノチ)神との説をとっています。両説は当社の神を生駒山という山林の守護神だと考証したものですが、田村氏は、当社から西南5キロのところの弥生遺跡・瓜生堂遺跡から大量の木製品が出土していることを挙げて、木霊説はいちおう留意してよい説だと考えられていました。

 

石標

 

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ククノチ神は、「日本書紀」の伊弉諾尊・伊弉冉尊の国生み神話の始めに大八洲国(日本列島)を生んだ後、海・川・山に続いて生んだという木の精のことです。「クク」には、茎の意味ととる説と、「木木」のことだとみる説があり、「ノ」は助詞で、「チ」はオロチやイカヅチとおなじチで、精霊だとか霊力あるものの尊称だとされます(「國學院大學神名データベース」)。自然神ですね。

 

神社鳥居前。「おかげ燈篭」が立ちます。正面の山中に少し覗くのが阪奈道路の高架

 

【社名「スハマ」】

当社の鎮座地は、生駒山の西麓の、旧東高野街道から20mほど高まった場所になります。田村氏は、当社創建はこのあたりから西に「河内湖」と呼ばれる水面が広がっていた時代と考えられます。大東市の説明では、今から6000年ほど前の、いわゆる「縄文海進」で海水面が上昇していた頃は生駒山の山際まで水没していました。それが、弥生時代前期ごろに河川などの堆積作用により水域が後退し、その稲作に適した低湿地に集落ができるようになったといいます。当社の北200mほどの所を鍋田川が流れていて、鎮座地は古来から不変のようです。

780年の「西大寺資財流記帳」には『荘家並葦原、在河内国更占渚濱(スハマ)』と見えていて、この古地名が社名に通じていると考えられます。「渚」は「なぎさ」で、波打ち際、洲のことであり、田村氏は、河川により運ばれた土砂の堆積でできた「砂濱」という意味から「洲濱」→「渚濱」になったとみておられました。当社の北500mのところに鎮座する大谷神社は、土地の人によると当社の分祀であるとの伝えがあるのですが、その拝殿の扁額には「渚濱大明神」とあって、その古地名の痕跡を残します。

 

境内へはさらに一段上がります

 

【古代河内湖の変遷と発掘遺跡】

当社の西方600m程の所に関西電力東大阪変電所がありますが、そこが弥生~古墳時代の集落遺跡・中垣内遺跡です。上記した弥生時代の低湿地の環境にあった集落遺跡で、昭和34年の発掘調査では、大量の土器、磨製石斧、石包丁、打製石鏃、木製の鋤などが見つかったと、大東市は説明します。この時は、一部区域だけの2週間の短期調査でしたが、もし全体を調査できていれば日本を代表する弥生遺跡になっていたかもしれないそうです。付近はこの後も何回も調査され、古墳時代の集落跡も確認されています。

上記した当社北方の鍋田川の扇状地には鍋田川遺跡も確認されていて、土器などとともに卜骨(占いに用いた猪の肩甲骨)、刻骨(祭りに使用した、鹿の角に刻み目をいれたもの)が出土しています。こちらも弥生時代から古墳時代の土器が多く出土しています。つまり、祭祀遺跡とみられ、このあたりが古くからの聖地とされていたと、先の田村氏は書かれています。

 

拝殿。お正月から間もないころ

 

狭山池博物館の特別展「古代河内湖沿岸の地域開発と水運」の図録に、古墳時代の河内湖周辺の地形図がいくつか掲載されていました。その3~4世紀の時期の当社に該当する地点は、およそ中・低位の段丘と扇状地性低地のちょうど境になり、低地の先はすぐ河内湖です。5世紀になると扇状地性低地の先に三角州性低地が出現しますが、河内湖は現在の四条畷市の蔀屋北遺跡あたりまで北に伸びています。この頃は現在の大阪湾近辺でも砂州や三角州で埋まっていく時期で、「八十島」が生まれていく時代です。

 

社殿

 

【堂山古墳群】

大東市はいわゆる北河内に含まれるのですが、この北河内の中でも現在の大東・守口・門真の地域には、古墳時代の首長墓といえる100m前後の前方後円墳が築造されていません。四条畷市の忍岡古墳(忍陵神社鎮座地)(古墳時代前期、墳丘87m)と墓の堂古墳(古墳時代後期、同70m)の南となると中河内の八尾市までないのです。さらに、古墳時代の中期に絞ると、北河内・中河内全体で前方後円墳が築造されなくなり、中小古墳ばかりになります。そんな状況の中で、5世紀前半に大東市内に突如現れる円墳が、堂山1号墳です。

 

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堂山古墳群は、飯森山の西方の尾根に築造された8基の古墳群で、古墳時代中期の堂山1号墳は一番最初に造られた直径25mの円墳です。墳丘の周囲には69個の円筒埴輪が並べられ、祭祀用の須恵器では高坏がまとまって出土したと、大東市は説明します。埋葬施設は遺体を納めた主棺と副葬品だけの副棺がおかれ、副棺には甲胃1組、鉄刀18本、鉄鏃 198点など、大量の鉄製武器・武具や農・工具が副葬されていました。これら副葬品から、同時期の百舌鳥・古市古墳群の勢力と深い関係のあった地域の首長的人物が埋葬されていたとみられます。

 

本殿。明治時代建立の春日造。すぐ後ろに阪奈道路が通ります

 

「淀川流域の古墳時代」で下垣仁志氏は、堂山古墳群への直接の言及はないものの、多くの研究者が注目してきたように、古墳時代中期の北河内地域の小墳の増加および前方後円墳の衰退は、各種の手工業生産遺跡の盛行と同調していると言われます。この時期は近場では、森遺跡での鍛冶生産工房や、蔀屋北遺跡などの牧や複合的な工房群が稼働していて、こうした展開の背景に畿内中枢勢力(ヤマト王権)のコントロールを認めるべきだと考えられています。

堂山古墳群は、「堂山古墳群史跡広場」として整備され、2~7号墳とともに公園になっています。2~7号墳は古墳時代後期の6世紀末から7世紀中葉にかけて築造されたもので、後の群集墳に時代になります。なかでも、3号墳出土の陶棺は北摂地域の千里・桜井谷窯跡群と関わる指摘があり、興味深いです。

 

拝殿向かって左の稲荷大明神

 

【歴史時代以降】

前記した「西大寺資財流記帳」にあるとおり、8世紀ごろになると、この辺りは大和の西大寺の勢力が生駒山地を越えて進出してきたところで、その勢力がさらに西への瀬戸内に通じる舟運の拠点として、渚浜の地を確保していたとみられています。

河内湖はその後、大阪平野となっていきますが、当社西方から四条畷市あたりまでの広い範囲が、江戸時代まで「深野池」として名残を残していました。しかし、大和川の付け替え工事で、大和川の水源が深野池に来なくなったことから水位が下がり、その後水田開発もされた為に消滅しました。なお、現存する深野池は、人工の池にかつての名前を付けたものです。

 

もう一社の稲荷大明神

 

【河内の大国主命信仰と弥生土器の様相】

大国主命とククノチ神となると、分類として在来系国津神と自然神の信仰だと捉えることになります。忍陵神社の記事では、大国主命に出雲を本貫とする人々を想像しましたが、そこまでいかなくとも、弥生時代からこの地に居住していた在来の人々の子孫が、後に記紀の大国主命に自分たちの祖先を重ねた可能性も思い立ちます。というのも、弥生時代中期以降(紀元前4~3世紀以降)は、淀川北岸の大阪平野北部(日本海側との交流が考えられる)と、河内(生駒山西麓)~大和の近畿南部は、土器の様式が異なり違う文化圏を持っている(全く交流がないわけでないが)というのが、考古学の定説だからです。また、西日本全体的に、弥生時代中期の土器の移動は近隣に限定されていて、土器の移動距離が飛躍的に長くなるのは、弥生時代終末期~古墳時代初頭だということなのです。

 

入口鳥居付近からの大阪平野

 

古墳時代に入った頃に首長墓級の前方後円墳が造られなかったということで、このころはヤマト王権の新たな支配体系が及ばなかったと思われ、古墳時代の中期になってようやく生駒山麓の各地の手工業工房に関わるようになって、ヤマト王権と接触し始めたということなのでしょうか。となると、比較的穏やかなイメージになり、縄文~弥生時代に遡るかに見える素朴な「渚浜」の神が鎮座地も変わらずに継続するというのもありえるかと感じました。深野池が近世まで残っていたことも功を奏したかもしれません。

 

背後の生駒山。山中左に見えるのが阪奈道路の高架

 

(参考文献:交野市公式HP資料、佐藤由紀男編「弥生土器」、「國學院大學神名データベース」、狭山池博物館特別展「古代河内湖沿岸の地域開発と水運」、広瀬和雄・梅本康広編「淀川流域の古墳時代」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、谷川健一編「日本の神々 河内」、吉村武彦・吉川真司・河尻秋生編「前方後円墳」、新谷尚紀「神社とは何か」、白山芳太郎「神社の成立と展開」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、三浦祐之「風土記の世界」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)